体験的電子事情・前編

学部時代、一般教養の数学は1年間、2進法の話でした。それはそれで面白かったのですが(ものの見方はいろいろあるのだ、という、目から鱗が落ちる気持ちでした。今どきの、何の役に立つ?という疑問は生じませんでした)、後年、コンピューターの原理を教わったのだと判り、脱俗紳士そのもののようだった先生への見方が変わりました。

卒業後、TV会社の経営部門に入ってすぐの夏(マクルーハンが流行った頃です)、フジテレビが民放で初めて、コンピューターシステムを導入するそうだとの噂が広がり、隣席の男性社員が研修に出され、局に泊まり込みで課題をこなし、翌朝髭だらけの顔を見たことを覚えています。視聴率はまだ手回しの計算機ではじき出し、視聴者アンケートの集計は、パンチカードに棒を刺してソートしました。

鳥取へ赴任するとき、PC一式を買い、東京とデータのやりとりをする所存でしたが、結局、宅急便でカードを送る方が現実的だと分かりました。PCは雷や暑さ寒さに弱いというので、落雷すると(鳥取は夏も冬も雷が多い)工学部棟からは悲鳴が上がり、コンピュータールームだけに冷房がありました。家電にもPCが組み込まれ始めた時期で、アパートのベランダに置いた洗濯機がすぐ故障し、雷の多い地域でこんなものを売るな、と電気屋に言ったこともあります。

1999年に宇都宮に転任したら、国語科で学内LANを使っている人は1人もおらず、緊急の連絡はどうするんだと訊いたら、誰かが事務室まで走る(キャンパスは広い)との返事。やむなく物理学から端末を借りて設定して貰ったのですが、友人が作ったHPを送ってきて、容量が大きすぎ(兎のラインダンスの動画だった)、凍結しました。

当時の腰折を1首ーちりちりと歌いながらに起ち上がる朝の端末支援者のごと