稽古照今

母校の国語国文学会公開シンポジウムを聞きに行きました。公孫樹並木で、大先輩の原道生さんに遭って、立ち話をしました。女流義太夫の会の会長になられたとか。忙しいので評議会に出ただけで帰る、と言われたので、私は居眠りしないように聞いてきます、と言ったら、「だいじょうぶ。今日は寒いから眠れないよ」ーゆっくりと安心させるようなその話しぶりに、院生と助手だった昔のことがなつかしく思い出されました。

シンポは「稽古照今」(『古事記』序文にある熟語だそうです)というタイトルで、司会は訓点語が専門の月本雅幸、講師は国語学の鈴木泰、中世文学の小島孝之、上代文学の多田一臣、という顔ぶれでした。同世代の小島さんの話は、この50年の国文学研究回顧といった内容でしたが、歴史社会学派の後に台頭した構造主義記号論の問題提起を、文学研究の全体的な展望の中で活かしていくことができなかった、という反省が耳に残りました。多田さんは、管理教育が強化されつつある大学現場と、その一方で閉鎖的、内向きな国文学の見かけの活況への悲憤慷慨を述べ、人文学の効用について発信していく必要性を力説しました。熊野純彦氏の言を引いて、人文学不要論は、新自由主義が市場原理にすべてを任せようとする限り繰り返されるもの、と指摘したことは、小島さんが、歴史社会学派が我々を惹きつけた理由には、高度成長期の経済的背景もあると述べたことと併せて、歴史の動態の中で問題を捉えることの重要性を改めて感じさせました。鈴木さんは、今やっている、現代語から古典語を引くことのできる辞典作りから気づいたことを話し、具体的で面白く聞けました。

全体に文学研究の意義を、当事者自身が考え抜いて発信することが、未だ未だ十分にできていない、と痛感したシンポジウムでした。