粟津のいくさ

城阪早紀(きさかさき)さんの論文「『覚一本平家物語』「木曾最期」考ー「粟津のいくさ」をめぐってー」(「国語国文」3月号)を読みました。義仲が粟津で死ぬ場面は、めのと子兼平の壮絶な自害の後、「さてこそ粟津のいくさはなかりけれ」(覚一本)という、印象的な一文で結ばれます。この一文の解釈は従来、どこかおちつかないまま、これで義仲とその従軍兵たちの野望は終わった、と受け止められてきました。

城阪さんは延慶本と比較しながら、覚一本では、「合戦」と「いくさ」、「討死」と「討たれた」とでは意味が異なること、義仲の兼平に対する情緒的依存が濃く描かれていること、「一所の死」は本来めのと子が実現するものであること等を指摘し、兼平は義仲の代わりに、「日本一の甲の者の自害する手本」を「東国の殿原」に見せつけて自害し、一所の死を果たしたのだ、かの一文は、義仲の無念を刻みつけるものだと言います。

すぐれた考察だと思います。私は、孤児であった義仲が生い立ちと志を共にしためのと子に抱いた情愛は、宗盛のような私的な肉親愛とは違うところがあり、それがひろく享受者の共感を呼ぶのだという気がしますが、ともかく幾つものコロンブスの卵を見せられた気がしました。

小さなことですが、p7下段の延慶本本文に付したかっこつき番号は、注番号と紛らわしい。また51もの注は、果たして全部必要だったでしょうか。さらに延慶本の読みがこれでいいかどうかは、今後議論の欲しいところ。諸本の本文が固定するまでには、採り入れ、配置換え、接着、複製等々、多様な編集方法が多様な理由で繰り返されています。覚一本はいわば精錬を重ねて純化された本文ですが、他の諸本には各々の事情がある。単に「相対的な古態をとどめる」本としてのみ捉えるのは危ういと思います。