震災体験・後日篇

2011年の新学期が始まりました。節電で、地下鉄の車中からは駅名表示が読めないほど照明が落とされ、エスカレーターは停止しました(何故か議事堂前駅だけは動いていました)。大口需要者には節電割り当てが来て、大学は校舎を1棟閉め、教室をやりくりしました。計画停電の行われた地域は、日常生活にも影響があって、大変だったでしょう(戦後しばらく、夕食時になると停電した時期がありました)。いま原発を止めても電気は足りる、という議論がありますが、そんなに簡単ではありません。そもそも最近のビルは、電食い虫仕様で設計されていて、節電は心がけだけでは出来ない部分があります。根本から、長期に亘ることを覚悟して、考え直さなければいけません。

今後、電気自動車や24時間つけっ放しの通信機器も普及していくでしょう。石油や石炭にいつまでも依存はできません。しかし、それでも、原発にエネルギーを頼るのはやめるべきです。被爆国だった日本は、戦後、「原子力の平和利用」というキャッチコピーに、目がくらんだところがあります。原子力は、人間には最終的に制御できない。自然に戻せないものは、断念するしかありません。ならば都市計画、住居や施設の設計から見直して、我々が「便利な」「かっこいい」生活を、ちょっとずつ諦めていくべきなのです。

4月に入って、眩暈が始まりました。春先の朝の立ちくらみは、少女時代から何年かに1度あったのですが、それとは違ってどんどんひどくなり、1日中ふらつくようになりました。耳鼻科を受診すると、耳石が剥がれてどうのこうのと説明され、眩暈が始まったら頭を振るように言われただけ。いつ歩けなくなるか、という不安で一杯でした。皮膚科医の従妹は、当時、眩暈に悩む人がとても多いと言っていました。服用薬を貰って、3ヶ月くらいで治りましたが、10階の研究室では気づかない程度の余震が続いていたのだと思います。船酔い状態が慢性化したのでしょう。