人はどれだけの

何だかもやもやしています―たとえ1円の給与でもここへ来た、と啖呵を切った紳士の映像を見ながら。ほんとにそうなら、給与は要らないよ、とかそんなに高くなくてもいい、とか言ってもよかったはず。報酬額を呈示された時、少なくとも、わるくない、と感じはしませんでしたか。志だけで引き受けた、なんて英雄ぶるのはどうも。

勿論、急に世論を気にして報酬金額を下げたのは、事務の手違いなどというものではなく、失礼であることは確かです。仕切り直す、というより官民共同事業にするのが適切かどうかから考え直した方がいいのではないか、と愚考します。

人はどれだけの土地が要るか、という有名な説話があります。同様に、人は一生にどれだけの金が使えるのでしょうか。事業を興すとか寄附するとか、他に分配するのでなければ、おのずから上限があるのでは。

製造業の場合、経営者だけで儲けは出せないのだから、社員の平均給与を基準にして、役員報酬に上限の目安があってもいいのではないでしょうか。平均給与×係数(この係数は何らかの根拠に基づいて決める。例えば休息はない、として8分の24×22分の30とか)、それに成功報酬を乗せてもいいでしょうが、社員の給与と無関係の天文学的数字は、おかしい気がします。では金融機関や投資会社、社員の多くが歩合制で働く組織などはどうでしょうか。この辺から、凡人のもやもやが始まるのです。

公的資金」という言葉が使われるようになってから、人々の金銭感覚があやしくなったと思います。ずばり血税と言うべき(研究補助金の注意事項には、この語がいまも使われている)です。誰のものでもない金は、自分のものも同然、という感覚の発生は意外に普遍的なようで、誰でもモラルハザードに陥る可能性が、ある。