源平の人々に出会う旅 第21回「滋賀県・比叡山」

 寿永2年(1183)、北陸を勝ち進んだ義仲は越前国府に布陣し、京都の玄関口となる比叡山の大衆(だいしゅ)に味方に付くよう牒状(手紙)を送ります。比叡山は東塔・西塔・横川の3区域からなっており、東塔・根本中堂が延暦寺の総本堂に当たります。

【東塔・根本中堂】
 牒状を書いた大夫坊覚明(義仲の右筆)は、西塔・黒谷で出家したとされます(『仏法伝来次第』)。以仁王の乱の際、平家に寝返った比叡山法師に対して、奈良法師が実語教を作って罵る逸話を延慶本等が載せていますが、『沙石集』によると、この奈良法師こそ覚明だったようです。なお、黒谷は法然が修行したことでも知られています。

f:id:mamedlit:20181004135615j:plain

 

【東塔・大講堂】
 牒状を受け取った山法師達は、大講堂の庭で僉議を行い、源氏に加担することを決めます。平家の総大将宗盛は都落ちを決意しますが、肝心の後白河法皇を確保できず、三種の神器安徳天皇と共に都を去ります。山法師の性質をよく知る覚明の智略により、源氏軍は無血入京を果たすのです。

f:id:mamedlit:20181004135659j:plain

 

【東塔・無動寺谷】
 比叡山は、『平家物語』の中で最も記事量の多い寺社の1つです。たとえば、根本中堂の南に位置し、別名を南山とも称する無動寺は、『源平盛衰記』には、天台座主明雲が流罪の際に、無動寺や根本中堂を遙かに仰いだとあり、覚一本等には、明雲を奪い返そうとする大衆のうち、無動寺法師乗円律師の童に十禅師権現が憑依したと記されています。

f:id:mamedlit:20181004135751j:plain

 

【西塔・恵亮堂】
 『平家物語』は、安徳天皇以前の帝位争いとして、惟喬・惟仁親王の例をあげます。この時、二宮惟仁親王側で祈祷したのが比叡山の恵亮でした。その結果、惟仁親王が帝位につき、清和天皇となります。この逸話は『曽我物語』などにも載録されています。

f:id:mamedlit:20181004135838j:plain

 

〈交通〉
JR湖西線京阪線坂本駅叡山電鉄八瀬駅
               (伊藤悦子)