連歌の教養

伊藤伸江さんの論文「心敬発句考―『芝草句内岩橋上』の『源氏物語』関係句-」(「文学・語学」222)と、「心敬と慈円和歌―その受容と変奏―」」(「文学・語学」207 2013/11)の2篇を読みました。

前者は情報量が多いのと、抜刷を持ち歩いてあちこちで読んだためになかなか頭に入りませんでしたが、連歌師の教養というのは当代きってのものであったことが分かりました。そのため自注が必要になったのでしょうか。斎宮赴任時の別れの櫛や、石山寺における『源氏物語』誕生は、中世では有名な説話の種ですが、随分いろんな異説が発生しているのですね。それにしても、寺本直彦氏の『源氏物語受容史論考』(1970 風間書房)は、私が未だ駆け出しの頃、お世話になった名著ですが、今もなおその偉大さは有効であり続けていることに感銘を受けました。

後者は、慈円の和歌の新奇さ、特異語句とその述懐性が、正徹を介して心敬の和歌・連歌の表現に、大きな影響を与えたことを追跡したもの。多作な慈円や正徹の作品をまとめて読むことはあまりなかったので、和歌としては珍しい表現に少々驚きながら読み、殊に慈円の特異語句には連歌の発想に向いたものが多い、と思いました。連歌的発想、というものが、素人の私には具体的に把捉されてはいないのですが、何かしら対手を誘う軽やかさ、差し出された言葉にスイッチしていけるだけの空隙の感触、とでも言ったらいいでしょうか。