小磯の浜

新村衣里子さんの論文「『梁塵秘抄』347番歌の「小磯の浜」の解釈をめぐって」(「成蹊國文」51号)を読みました。「紫檀赤木は寄らずして」「胡竹の竹のみ吹かれ来て たんなたりやの波ぞ立つ」と歌われた「小磯の浜」は、現在、特定の地名ではないとされているが、東海道相模国の大磯小磯であろうとし、紫檀赤木には恋の色、重く堅固なイメージが、胡竹には軽く流されやすいイメージがあるとして347番歌を解釈しています。

しかし、紫檀赤木は仏像の材に使われ、胡竹は笛の材に使われることが、この歌の鍵ではないでしょうか。また、海外から仏像や笛が渡来する説話は、多く伝わっています。大磯が遊女のいる宿として栄えていたのなら、ますます仏像と楽器の対比―仏道精進と音曲遊楽との対比があざやかになります。言葉の上からは小磯に「恋ひそ」、「急ぎ」の語が連想されるのと同様、胡竹が「吹かれ来」るのは、笛の縁語とみなすべきでしょう。

追記:いま手許にある『梁塵秘抄』の校注3本を見たところ、志田延義氏が「紫檀赤木」に、琵琶の材であることを注記しておられました。なるほどそれなら、音曲の賑やかな大磯小磯では、琵琶でなく笛の音がたんなたりやと響き渡る、との意になります。しかし琵琶は、波に揺られて渡来するのでなく空を飛んで伝来する方が、中世説話の感覚に合う。私見はこのまま掲出しておきます。]

新村さんは曽我物語の虎御前に注目して、虎のイメージやこの地域に三浦氏の勢力が強かったことなどを、さまざまな先行研究を引きながら述べた論文を、連続して書いています。多彩な材料を結びつけて次々に展開していくところは、楽しくもありますが、論文としてはふわふわした感じになってしまって、手応えがいまひとつ。何を主たる眼目としているのか、筆者が明確に自覚していないと、読む方は振り回されてしまいます。私が読んだ、同じテーマの4編の中で、最も安心して読めたのは「曽我と虎御前―人物移動と場の特性を手がかりにー」(「成蹊國文」49号 2016)でした。