源平の人々に出会う旅 第18回「北陸・倶梨伽羅落」

 燧ヶ城落城の知らせを聞いた義仲は越中へ向かいます。『源平盛衰記』では、寿永2年(1183)5月9日に先鋒隊の今井兼平軍が般若野(砺波市)で勝利をおさめます。義仲は軍勢を七手に分け、自らは埴生庄(小矢部市)に布陣しました。

【護国八幡宮(埴生八幡宮)】
 11日、義仲は偶然、お社を見付けます。『源平盛衰記』では、それが池田次郎の説明で八幡宮(源氏の氏神)と分かり、大夫坊覚明に願書を書かせます。能「木曽」はこの場面を題材としており、シテ(主役)の覚明が願書を読み上げるもので、能楽では"三読物"の一つ(他は「安宅」の勧進状と「正尊」の起請文)になっています。池田次郎も登場します。

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【猿ヶ馬場・平家本陣跡】
 義仲は、平家軍を砺波山の倶梨伽羅峠にある猿ヶ馬場に布陣するように仕向けます。現在、猿ヶ馬場には平家軍の大将維盛らが軍議の際のテーブルに利用したと伝わる巨石があります。

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倶梨伽羅古戦場】
 『源平盛衰記』には独特の記述が多く見られます。この合戦で源氏軍が、田単火牛の計(斉の官吏田単が、牛の角に剣、尾に松明を結びつけて敵陣へ追い込んだ計。義仲は牛角に松明をつけたという)を用いたとするのもその一つ(一部は長門本にもある)です。また、巴と共に、葵という女が一軍の将として戦って討死したとし、古戦場の近くに「巴塚」「葵塚」もあります。

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【蟹谷次郎由緒の地碑】
 源氏の一手として戦った越中の蟹谷次郎も、『源平盛衰記』のみに登場します。蟹谷らは源氏の圧勝を祝う酒宴で太鼓を叩き、その後、蟹谷はこの付近に居住して八講布(越中・加賀特産の麻布。八講会の際に僧侶への布施とした)の晒し技術を伝えたとする伝説があり、「源氏太鼓」が現在も伝わります。
 『源平盛衰記』が人々に与えてきた影響の大きさが、よく分かります。 

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〈交通〉
あいの風とやま鉄道石動駅IRいしかわ鉄道倶利伽羅駅下車
                       (伊藤悦子)