小宰相身投

原田敦史さんの「小宰相身投考」(「共立女子大学文芸学部紀要」64)を読みました。原田さんはこのところ、平家物語諸本の記事を読み比べ、綿密な読みによってそれぞれの意図と方法の違いを照らし出していく論文を積み重ねていますが、今回は一ノ谷で通盛に死なれた小宰相が後追い自殺をする「小宰相身投」を取り上げています。

すでに多くの人が論じてきた、哀切な記事ですが、中でも彼女の「いくさはいつもの事なれば・・・など後の世とちぎらざりけん」という後悔は、今なお読者の共感を誘っています。覚一本、延慶本(長門本)、四部合戦状本、南都本、源平闘諍録、源平盛衰記を比較し、「あれが最後と分かっていたら」という後悔を前面に出す覚一本・延慶本、しかし延慶本の小宰相は、彼女の再婚を懸念する通盛の気持ちに応えられなかったことを、最もつよく自らに責めていたのではないかと述べます。魅力的な読みです。

しかし源平盛衰記巻38「小宰相局」の読みに関しては、成功しているとは言いがたい。源平盛衰記の本文は幾層にも重なり、広範囲に触手を伸ばし、一筋縄ではいきません。原田さんは、一時の激情よりも日常こそが真実、という価値観を盛衰記に見ようとしていますが、果たして如何でしょうか。

私は、盛衰記の小宰相夫妻はすでに、「後の世」を堅く契っており、彼女はそれに殉じて入水したのだと思います。また妊娠を告げられた通盛が、数ヶ月も先の出産を心配する姿に(滑稽さと共に哀れさを感じますが)、初めての子の懐胎でさえ、不安の種となる自分たちの現状を思い知らされたのでもありましょう。