声の文芸を紙上に

今朝の朝刊の読書欄に、伊藤比呂美石牟礼道子追悼文が載っていました。自ら石牟礼道子を、「詩的代理母」と思っていたと書いています。伊藤比呂美の小説は読んだことがありませんが、般若心経の現代語訳を読んだことがあります(調べたら、高校は同窓でした)。彼女の推薦する石牟礼作品の筆頭は『苦海浄土』。「日本語が、現代文学の中で、どこまで行けるかがよくわかる」と言っています。

学部の一般教養保健体育の授業で、いきなり、きりきり舞いする猫の映像を見せられたのは、50年以上前のこと。いま思えば、公害病の講義としては早い方だったと思います。その後、若気の正義感でチッソの一株株主になりました。地方勤務を繰り返すうちに株主総会の通知も来なくなり、株券は無効になってしまいましたが・・・『苦海浄土』も出てすぐ読んだのですが、熊本弁の独特な語りのトーン、その静謐な重さを、うっすら覚えているだけです。

石牟礼道子の文学のすごさの一つは、音だけのことばを、音を持たない人々に向かって、まるで音がありありと見えるように表記して納得させたところである。説教節、謡曲、声に出して人に伝える文芸はいろいろある。石牟礼さんは、『苦海浄土』から一貫して、そういう声に出す文芸を、力強く紙の上に叩きつけて、私たちの脳内に、声を再現させてきた」と伊藤比呂美は締めくくっています。平家語りと平家物語の文体との関係を思い浮かべながら、思わず頷きました。