時計台

東北新幹線の下りで東京駅を出てすぐ、ビルとビルの切れ目から、服部の時計台がちらりと見える所があります。宇都宮に通勤していた時は、授業は2限目からでしたが、万一の時に間に合わないといけない、と朝6時台の新幹線に乗ることにしていました。朝食のサンドイッチを買って自由席に乗り込み、ほっとするやいなや列車は動き出し、朝日に輝く時計台が一瞬見えて、さあ今日もがんばるぞ、と思ったものでした。

その時見えるのが、朝日に燦めく銀座服部の時計の針だということは、たしかにブランドの効用だったかもしれません。無理な日程でもこなしきって、人知れず恥ずかしくない仕事を続けてやるぞ、と覚悟を新たにする時に、日本の中央の栄枯盛衰を見続けてきた時計台から、無言の励ましを貰ったような気になったのです。

ブランド品がその持ち主を定義するような時代は、とうに過ぎ去ったのではないでしょうか。むしろブランド品が証明しているのは、それを作った職人の技と誇り、それに見合う信念のある生活をしているかどうか、だと思います。見合わない生活をしている者がブランド品をひけらかしている場面くらい、見苦しく、気恥ずかしい光景はない。

一時期から日本人は、金を出せばブランド品が買える、ということと、ブランド品を持つのは上流階級の人間であるということとを混同してしまいました。それこそが伝統の浅い、文化水準が高くない(下流の考え方である)ことを証しているのに。