高下駄の雪

雪の翌朝は(出勤の苦労がなければ)、何故か浮き浮きし、遠いことを思って懐旧的になります。子供の頃、湘南に母方の実家の別荘があって、その離れに間借りしていました。大雪の朝、母屋から従姉の1人が高下駄を履いて様子を見に来ました。小さな離れでしたが庭に笹藪があり、積もった雪がかき氷のようで美味しそうだと言ったら、縁側に腰掛けていた従姉は、履いていた高下駄の歯をひょいと裏返し、指で綺麗な雪を掬って舐めました。70年近く前のことなのに、あの光景は今でも目に浮かびます。

活発で美しい従姉でした。虫籠を忘れて蜻蛉捕りに行き、みそっかすの私はオニヤンマを両手の指に挟んで持たされましたが、噛みつかれて逃がし(オニヤンマに噛まれたことがありますか?泣きたいほど痛い)、こっぴどく叱られました。塗り絵を塗っても、ままごとで花びらを料理に仕立てても、センスが光っていて、憧れの人でした。詩人シェリーを専攻し、大学教員になりましたが、医大で教えた学生にストーカー同然で求婚され、高齢出産の輸血が原因で亡くなりました。瀕死の床で校正した訳書で賞を獲り、さあこれから、という時でした。

早世した人の思い出は、時間的に最後の場面とは限らず、思いがけない姿が目に焼きついているもののようです。