言い訳

李窓益さんの「世越号沈没事故と死の表象の疫学―韓国社会における「死ぬこと」の意味について―」(「死生学・応用倫理研究」21 2016/3)を読みました、壮絶な論考に吃驚し、併せて同誌に載っている裵寛紋さんの報告「韓国における生死学研究の現況と課題」も読んでみました。

後者によれば韓国の生死学研究は1990年代後半から始まり、①人文学の分野(韓国ではキリスト教ほか多様な宗教思想があった)、②葬儀文化の分野(韓国では土葬が一般的)、③well dyingに関する分野などで、西洋・日本とは別の、韓国の文化・伝統に合った研究が進められようとしているとのことです。

李さんの論文は翻訳なので必ずしも読みやすくはないのですが、2014年4月16日に転覆した大型旅客船世越号の事故が韓国人に与えた衝撃とその結果を分析しています。衝撃は304名という死者の多さだけではありません。高校生たちに誤った指示を出しておきながら脱出した船長以下船員たちのこと、老朽船を買い取って運航させた関係者たちのこと、そして船内に取り残されたまま死んでいった若者たちの様子がリアルタイムで、また後日に、携帯電話その他で知らされたこと等々、当時は他人事のように聞いていた事実が改めて重くのしかかってきました。韓国ではウェブ上にも地上にも「世越号記憶貯蔵所」が作られ、特別調査委員会が起ち上げられましたが、世越号が3日かかって沈没して行くのをTVその他で見た国民は、葬儀に立ち会ったかのような気になり、その結果、記憶しよう、ごめんなさい、と言いながら、死の表象の意味がしだいに薄れて行ったのではないか、と著者は問うています。

事情はすこし違っても、阪神大震災や東北大震災にも似た面があるのではないでしょうか。さらに言えば「さきの大戦」に対する、「戦争を知らない」世代の意識にも。

ジャン・ジロドゥの戯曲「トロイ戦争は起こらないだろう」の中に、戦死者を悼むスピーチとして、「鎮魂はいつも、生き残った者の言い訳です」という言葉があります。生き残る者にとって、言い訳や忘却は必要です。しかしそのこと自体を忘れずにいることが、せめてもの死者への礼ではないでしょうか。