ジェンダーとメディア

我が家は親の代から同じ新聞(一般紙では最も進歩的と見られている)を取っているので、ほかの報道と比べたことはありませんが、かつて身の上相談欄があった頃、妻には「不倫」、夫には「浮気」という見出しがつくのを、子供心に不審に思っていました。

日本のフィギュアスケートがようやく注目を集め始めた頃、男子の草分け的選手(現在は指導者になっている)を好意的に取材したインタビュー記事の見出しが、「女でも跳べる3回転をなぜ跳べない」(当時、女性選手で日本人初の3回転を跳ぶ人がいた)となっていて、私は編集デスクに抗議しました。なぜ女性を引き合いに出すのか、と。爾来その男性選手を応援する気になれませんでした(本人に責任はないのでしょうが)。

名古屋の大学に勤めていた頃、この新聞社の主催する市民講座の講師を引き受けたことがあったのですが、大学教授の肩書がついているのに他の講師は「氏」、私だけ(女性は私だけだった)「さん」づけで、主催者に抗議したのですが直してくれませんでした。ところが数日後、再度広告が出たときには「氏」で統一されていたのです。読者からの抗議があったから直したとのことで、後日判明したことは、その「読者」とは知り合いの若手研究者でした(今でもその方には内心恩に着ています)。

その数年後、親の死亡記事に、喪主を務めた私の名前が長女の記載と肩書きがあるのにさんづけになっている。編集部から確認の電話があったので、社会的肩書きもあり、長男なら「氏」なのに長女はどうして「さん」なのか、おたくと個人的つきあいがあるわけではない、と抗議したのですが、駄目でした。しばらくして、この新聞社の死亡記事の敬称は「さん」で統一されました。

「不倫」と「浮気」の使い分けは恐らく無意識で、悪気は無いという言い訳(最も腹の立つ言い訳)が聞こえてきそうですが、半世紀以上経った今でも、日本社会全体に存在している感覚ではないかと思うことがあります。