仏を見るということ

本井牧子さんの論文を2本読みました。

『釈迦堂縁起』とその結構(「國語國文」5月号)

海を渡る仏―『釈迦堂縁起』と『真如堂縁起』との共鳴(『ひと・もの・知の往来』勉誠出版

嵯峨の清涼寺の釈迦像は、自らの意志で辺土日本へ渡ってきた仏である(だから末世の辺土に生まれた我々には特別に有難い)という伝説がありました。『宝物集』の出だしが、その釈迦像が天竺へ帰ってしまうという噂が立ち、その前にぜひ、と押しかけた人々の間で語られた、という設定になっていることは有名です。

本井さんの論文は『釈迦堂縁起』の構想を読み解き、さらに『真如堂縁起』が『釈迦堂縁起』を下敷きにして、本尊阿弥陀像に渡来仏のイメージを附与したと推測していますが、印象深かったのは「仏を見る」ということについての指摘です。縁起絵巻の最後に仏像が描かれていないのはわざとのことで、意味があったのです(原始仏教では仏の姿は偶像化してはならないもので、塔などを代用の象徴として描くか空白にしました。私は単純にその名残と考えていたのですが)。

仏教では、この世に生まれて命あるうちに仏の教えに出会える確率は、大海に浮かぶ盲目の亀が流木に行き会うようなものだと教えます。本井さんの論文から、中世の信仰と表現のあり方、絵画資料の読み方などのヒントを貰いました。近年、仏教資料の研究はひろく学界を覆っていて、ときに酸素不足になりそうな感じをもつことがありますが、方向の明確な、読んで楽しい論文2本でした。