版本

高木浩明さんの「本文は刊行者によって作られる―要法寺版『沙石集』を糸口にしてー」(「中世文学」62)を読みました。要法寺の日性によって版行された『沙石集』の古活字版2種を比較して、別版のように見える慶長10年版と無刊記版とが、じつは同版の匡郭や版心などを一部替え、本文をも一部分補訂して、同時に刊行準備をしていたものであると推測した論文です。

どうしてそんなことをしたのかは未だ分からないようですが、本文校訂や出版について、現代人からは意外に思われる作業がしばしば行われたこと、近世の出版とは校訂や改編作業を伴うものであったことがよく分かります。実際の写本版本を触らずに諸本論を述べることが如何に危ういかをも、思い知らせてくれます。

ちょうど塩村耕さんの「近世における写本と版本の関係は」(『古典文学の常識を疑う』 勉誠出版)を読んだところでした。版本写本の重層が近世文化の多彩さ、豊かさをもたらしていること、西鶴はまさに出版史の申し子のような作家で、そのことが彼の表現の特色に深く関わっていることを指摘しています。

中世から近世の作品は、メディアリテラシーを考えることに大きなヒントがある、ということを最近痛感しています。