経済大国日本

Nスペが2週続けて「中流危機を越えて」というタイトルを組みました。ところどころ居眠りしながら視たのですが、この20年間、日本の賃金は上がらず、それどころか所得分布の中間値は¥505万から¥374万へと大きく下がっている、という数値に仰天しました。1億総中流社会と言われたのは、いつのことだったか。一方でグローバルな均衡が必要だという理由で、大手企業の役員報酬天文学的数字(我々からはそうとしか見えない)になっていますが、国の豊かさとは本来、民の生活安定に基づくものでしょう。

日本はもはや経済大国ではない。海外へ資金をばらまくことで、外交に成功しているなどと勘違いしないで欲しい。そんな分際ではなくなっている、と思いました。じっさい、日本人の平均賃金はすでに韓国を下回っています。政治家がそれを言わず、国民は未だに、日本は奇跡的な戦後復興に成功し、誰しもふつうに暮らせば「中流」階級でいられる、と無邪気に思い込んでいるとしたら、それこそが危機です。

終身雇用が日本社会の強みだと言われた時代が過ぎて、産業構造を変え、労働移動(つまり転職)がスムーズにできるようにするのが必要だ、という主張は納得できますが、番組は社会全体のDX化を前提にした結論ありきの構成で、全く納得できませんでした。いま日本の社会で一般的に、そんなにデジタル人材が求められているだろうか。むしろ不足しているのは、介護や建設現場や第一次産業の、いわゆる3K労働力で、それらがハッピーな働き甲斐を持てないことに問題があるのではないか。

正規雇用の待遇改善は、管理職になれるとか手当が公平だとかいうことではなく、雇用が安定的でないことに問題の根本があるので、労使の力関係が今のままでは解決しない。みんな、日本の現状を見つめよう。紙幣を増刷してごまかせるわけがない。

読む羅針盤

武久堅さんの『平家物語への羅針盤』(関西学院大学出版会)を読みました。武久さんは私より7歳年長、8歳年長の栃木孝惟さんが頻りに、軍記物語の読みへのファイナルアンサーを書くと言っていたことを思い出し、本書もそういう意図かなと思って開いてみました。私自身、そもそも古典文学は読者が自由に読んでいい、いや文学の読みは(教室以外では)自由であるべきだ、との考えなので、「○○の読み方」とか「○○の手引き」といったタイトルには強烈な抵抗感がありましたが、近年の平家物語研究を見ていると、読者にとって迷妄の叢林を増やすだけといった感があり、研究者のファイナルアンサーを世に問うことも必要なのかも、と考えたりするのです。

本書は、1『平家物語』の「発生」から「成立」「変容」まで 2『平家物語』の全体像 3木曽義仲小論 4『平家物語』の散歩道 5『平家物語』の生き物たち 6建礼門院800年御遠忌 7『平家物語』の旅人 という構成になっていて、1985年以降書いたり話したりして、研究書にまとめた以外の原稿に加筆し配列したものです。武久さんの持説のエッセンスに、ブログに書くような気楽なコラムを併載した形になっています。

ところどころ現在の研究状況とは合致しない点も見受けられます(読み本系本文を後補という角度からのみ見ること、長門切に一切言及しないこと、p31「歌苑連署事書」の批難を平曲享受のあり方と関連づけること、覚一本が延慶本から編集された、また灌頂巻を覚一自身が編纂したとすること、語り本系本文は琵琶法師の語る詞章をそのまま記したとすることなど)。一方、後白河院が言う建礼門院との「同宿」は男女関係ではない、また『閑居友』の「かの院」は女院ではなく後白河院を指すという指摘は、貴重です。

全体は市民講座の成果ともいうべき本ですが、第1・4・6章は研究者も一読お勧め。

彼岸の仲日

秋分の日だというので、そうか、お彼岸だ、と扇屋へおはぎを買いに行きました。休日を日曜に連結して動かす法律ができてから、季節ごとの祝日がぴんと来なくなりました(先週の敬老の日、グーグルのヘッダーには老人に花束を贈る子供たちの絵が出ていましたが、キャプションは「勤労感謝の日」でした。「老人にも働いて貰う日」になったんだな、と言いたくなりましたが、日付が変わる前に訂正されました)。

扇屋の先客は若い女性グループで、並んでいる焼き菓子を1つ1つ取り上げては品定めをするので、いらつきました。指先に消毒液を吹きかけたとはいえコロナ下、なるべく触らないのが作法。昨日のスーパーでも、棚全部を掘り返して賞味期限の新しいウィンナを買おうとする老婦人がいて、昔なら「商売もんだからね!買わない物を触らないでくれ」と店主から言われるところだ、と思いました。

粒餡と胡麻のおはぎを買って帰りました。出来たてで柔らかく、小ぶりで甘さ控えめなので、2個食べても儚い感じですが、もう1個食べると多すぎる(博多方言では「よっちゃり」すると言います)。満足して、ムスカリの植え付けに取りかかりました。

今年は6月が天候不順だったので、植物も暦が狂ったようです。盛夏に咲くランタナが今頃咲き始め、晩夏に葉を落とす梔子は先週から黄葉し始めました。近所の庭先でメハジキが満開になっていましたが、あれは夏休みの終わりに御殿場まで墓参に行く時見かけた花です。例年、霜の降りるまで楽しめたコリウスは早くもぼろぼろ。菊は根が張らず、立ち枯れが多く、蕾が出るまで気がかりです。

雨天続きで足長蜂が来ないので、梔子に青虫がついたらしい。毎朝、割り箸片手に繁みを探索しています。

甘藷栽培の普及

在外日本学関係資料紹介で活躍している辻英子さんから、1冊の本が送られてきました。中林賀一郎著『朝鮮に於ける甘藷栽培の実際』、開封した瞬間何かの間違いではないかと思ったのですが、巻末の「覆刻に寄せて」を読んで、事情が分かりました。

中林氏は辻さんの父君、付載の自筆年譜「歩みの跡」によれば明治37(1904)年群馬県に生まれ、群馬の農林学校及び京城師範学校を卒業後、朝鮮半島で教員となり、召集されて入隊後3日で終戦ソ連軍の進駐に遭い、日本へ引き揚げて後も教育に携わり、昭和46(1971)年に死去したとのことでした。昭和10(1935)年に、北限に当たる朝鮮半島での甘藷栽培普及のために本書を刊行、絶版になっていたものの、長女の辻さんが大英図書館で歓談中に、日本敗戦後の食糧難を救った甘藷の話が出て、本書の寄贈を懇望されたことをきっかけに、今回汲古書院のオンデマンドで覆刻したとのことでした。

子供の頃昼食に決まって出たふかし芋は、水っぽく繊維だらけで、惨めな食物でした。まだしも塩とバターをつけて食べる馬鈴薯の方が食事らしい。南瓜と甘藷はもう食べたくない、という年代があることは周知の事実ですが、私もそれに近く、永いこと敬遠する食材でした。焼き芋もよく女子をからかう材料にされ、買うところを目撃されたくないものだったのです。しかし現在の甘藷は甘く香り高く、別物のようになりました。

救荒作物として普及を図った甘藷は、今や韓国でも、ソウルフードのキムチ同様の食材になったそうで、あの時代、各人が目前の使命に勤しみ現地に遺してきたものが、それと知られぬほどに根付いて喜ばれていることに、ほっとする気になります。

一方、「歩みの跡」末尾に辻さんが注記した逸話に思わず息を呑みました。戦争は決して起こしてはならない。かけがえのない人生、行く先も知らずに行進させられてたまるか。

信濃便り・直木賞作家篇

用があって長野の友人にメールしたら、いま今村翔吾の講演会場に来ている、との返信が来ました。台風接近で不要不急の外出は控えろ、と気象庁が言っていた昼です。

今村翔吾の自家用車

【今年は真田信之松代入部400年に当たり、この講演会は「今村翔吾のまつり旅 47都道府県をまわりきるまで帰りません」と銘打ったイベントのひとつでした。今春に始まり、最後から2番目が長野県、9月24日に山形県新庄市でゴールとなるそうです。直木賞受賞後の第1作として『幸村を討て』を刊行(2022年3月)。ワゴン車の内部を改造したので車内でも執筆でき、出発以来、一度も帰宅していない由。会場の玄関口に停められたワゴンの車体には、メッセージがいっぱい書き込まれていました。

当地では元気いっぱい、近江弁?で、真田信之への熱い思いを語り、集まった100人の聴衆は大喜び。3週間後に開かれる4年ぶりの真田まつりへの格好のエールとなりました。講演後、風のように立ち去っていきましたが、午後には地元テレビ局のスタジオに姿を見せ、エネルギーの塊のよう。38歳の作家とは思えないほど、身のこなしが軽快でした。

じつは未だ作品は読んだことがありません。会場では長野の書店が出張販売。『幸村を討て』や受賞作『塞王の楯」などが飛ぶように売れていました。中学生の頃は放課後によくお城に遊びに行き、低い方の石垣を登ったので、石を積む職人が主人公の『塞王の楯』を購入したかったのですが、つい『幸村を討て』に手が伸びてしまいました。】

ウェブで調べたら、「家業のダンストレーナーを継ぎ、書店も経営」しているという。今どきダンストレーナーは「家業」なんだ、と驚きました。身が軽いわけです。

女子中学生もよじ登る城壁がある故郷って、いいですね。冬には、常山邸庭園の池で氷滑りをして、管理人に叱られた話もしていましたっけ。

殯宮祗候

平成元(1989)年2月24日は、冷たい雨の降る日でした。高齢だった亡父は昭和天皇の大喪参列を断わっていました。ほぼ同年だった私の恩師は、新宿御苑の大喪から武蔵野御陵まで参列されたのに、兵役も務めた父は、もう充分御奉公した、風邪でも引いたら今後の御奉公ができない、と言うのです。崩御から大喪までの間に35日間ほど、殯宮祗候という行事があって、各界代表が2人ずつ1時間、入れ替わりで呼ばれました。民間でいう通夜に当たり、皇族2人が同席して棺の傍に侍るのです。その間身じろぎ一つしてはいけない、勿論喋ったり眠ったりしてはいけないのだそうで、皇族方はさすが習慣づけられているのでしょうが、同席した他社の社長について父は、あの人は座禅の経験があるけど、僕は辛かったなあ、と述懐していました。

しかし新帝の即位式には参列しました。葬儀には必ず駆けつけよ、という田中角栄の家訓とは異なって、我が家では、お祝い事には無理してでも出て上げるものだと教えられました。思うに政治家は新たな後継者と縁を繋ぐことが大事、そこが、自らは祝儀を慎ましくし周囲が花を添えてやろうとする官僚とは違うのだと思います。

吉田茂にも仕えたので国葬に出たはずですが、何も感想は述べませんでした。軍部がめちゃくちゃにした日本を建て直す道をつけた首相を送るのに、自然な待遇だったのでしょう。野党は国葬の基準を作るべきだと言っていますが、国葬天皇上皇だけでよい。それは大喪と定められているので、つまり国葬吉田茂が最後でいい、と思います。何よりも静かにお送りするのが、死者への礼儀。

すでに家族葬は済んだのだから、27日はいわば「偲ぶ会」に当たるのか。いずれにせよしめやかに、質素に執り行って、2度と政権の都合で決めたりしないことです。

ギルティ・シンドローム

台風情報の合間に挟むためか、NHKTVが5分、3分の番宣を不規則に流しています。偶々「キーウの夏」というNスペの紹介を視ました。9月10日に放映したらしいのですが、視ていません。戦火に蹂躙された印象の強いウクライナの首都キーウが奪還され、しばし日常が戻ってきたが・・・というドキュメント。放棄されたロシア軍戦車の前に歩み出てきて無邪気に笑う幼児の笑顔が、何より尊いものに見えました。

ウクライナは未だ徴兵令が発動されておらず、街頭で入隊をリクルートしているという(但し兵役年齢の男子は国内に留まる義務がある)。妻を海外に避難させ、国内で戦争報道を続けるカメラマンと、一旦海外へ逃れたものの、娘だけを置いて戻ってきた老夫婦が紹介され、彼らはギルティ・シンドロームに悩み、苦しんでいると説明されました。guilty syndrome―同朋が生死を賭けて戦場に出ているのに、自分だけが安全な所にいていいのか、という自責の念。現に疾病があって兵役免除になっている老夫婦も、海外へ出る時は近隣住民から非難の目を向けられたという。

覚えがあります。ベトナム反戦の時、東大紛争の時、自分の無力を抱きかかえるような、苦しい思いを味わいました。殊に安田講堂陥落の日は中継放送の画面の前で、これを凝視することは義務だと自分に言い聞かせました。さきの大戦で反戦主義者がその意志を貫徹できなかった理由は、弾圧への恐怖よりもこの罪責感だったようで、どの国でも同じだったらしい。一度戦争の口火が切られてしまえば、そうして後へは引けなくなるのです。

軍の料理番に志願することにした、と語る老婦人の膝の上で、雉子猫が背伸びしながらしんそこ嬉しそうに、戻ってきた主人の顎に頭をこすりつける映像を視ながら、その罪責感は軍記物語誕生の原動力でもあった、と考えたのでした。