中書王御詠

中川博夫さんの『中書王御詠新注』(青簡舎)という本が出ました。後嵯峨院第三子宗尊親王の家集(中川さんは親王の自撰、藤原為家命名と考えています)に現代語訳と注釈、補説を付し、解説と初句索引を併せ収めた全440頁。中川さんは『瓊玉和歌集』『竹風和歌抄』にも同様に注釈を加えていて、このところ宗尊親王詠作の全貌を描き出す大業に挑んでいます。

中務卿宗尊親王は仁治3年(1242)に生まれ、11歳で鎌倉へ下向、将軍となりましたが、文永3年(1266)には妻の密通事件がきっかけで鎌倉に騒動が起き、将軍職を失って入洛、文永11年(1274)に死去しました。真観と為家との両方から和歌の指導を受けたようです。本書は為家が評語を書き入れた時雨亭文庫蔵本を底本としており、為家の推敲の跡が生々しく残っている写本から得られた情報も、注釈に活かされています。

『中書王御詠』は鎌倉在住時代と帰京後の両方の詠作を含み(文永4年11月頃の成立か)、四季160首、恋49首、雑149首の部類歌集ですが、中川さんは、本来は恋と雑がもう1首ずつあったかもしれないと推測しています。そして真観撰の『瓊玉集』が親王将軍詠作の正統性を指向し、『竹風抄』『柳葉集』が定数歌特有の定型的歌風であるのに対し、失意の時代に編まれた自撰家集らしく、やや特異な、伝統をはみ出す詠(解説では具体例を挙げ、検討を加えています)も含まれ、歌人宗尊像がよく窺えると言います。和歌は、伝統の型の中にありつつもいかにそこから踏み出すかが、つまり個性なのでしょうが、なるほど定家や俊頼や後鳥羽院とは異質のはみ出し方が、あちこちに見えます。

嵯峨院の時代は平家物語研究でも気になる時代です。中央と地方、京都と関東、公家と武家、といった定番の区別でなく、新時代の文化誕生の基盤を考えたいと思います。

阿波国便り・神水篇

徳島の原水さんから届いた写メールです。

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残されたスダチ

スダチは青い実しか見たことがありませんが、時季が来れば色づくのですね。黄金色の実は何となく豊饒な感じで、新年にも合います。それにしてもこれだけの実を、あたら落果させてしまうのでしょうか。ママレードとか果汁にして利用したい気がします。

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森神社の神水

【時々行く産直店の近くにある森神社の神水です。市販のペットボトルの水よりも上質、との説明書きがあります。】

調べると、平安時代覚鑁が創建したと伝わる神社だそうです。神仏混淆の時代は権現さんと呼ばれていたが、廃仏毀釈の際に五十猛神(いそたける素戔嗚尊の子)を割り当てられたらしい。権現さんとして信仰されていた間は、祭神が何なのかはっきりしていなかったようです。どういう根拠で五十猛神が祀られたのか、地元ではどんな神として理解されているのかは不明です。今は小さな神社や祠にも、時代が荒波のように襲いかかった歴史があるんだなあと思いました。

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森神社への道

【このような道でも車が通ります。この日も2台に遭いました(轍が残っています)。「ぽつんと一軒家」というテレビ番組がありますが、ナレーションがいつも大仰で、あの程度の道は徳島では普通です。(原水民樹)】

「秘境」に住む人を訪ねる番組が増えましたが、あのくらいの山中なら、戦後すぐまではごくふつうに人里があったのです。私が感心するのは、そんな「秘境」へ行く道が今はたいてい舗装され、一部でも保護柵があったりすること。写真の道は未舗装ですが。

土地の言葉

夕食後ぼんやりTVで郷里自慢番組を視ていたら、津軽弁が今でも生き残っている土地はどこか、という話題が出てきました。TVクルーはまず、青森最北端の竜飛へ取材に行ったらしいのですが、ここは青函トンネルの工事で全国から人が集まったため、もう生粋の津軽弁は使わない、五所川原の金木へ行け、と地元の人から言われていました。ああそうなのか、と感無量でした。竜飛岬には2度行ったことがあります。8月でしたがもう秋草が咲き始め、人影はなく、潮目がくっきり見えて、旅情に包まれました。2度目はトンネル開設が決まった後で、土地の雰囲気が一変することは目に見えていたのです。

この辺は寒いからなるべく少ない発音で会話したい、だから敬語が少ない、という説明は意外でした。地方へ行くと、軽い敬語の種類が多く、微妙に敬意の程度が使い分けられているからです。例えば父祖の地博多では、「おる」(居る)、「おらす」、「おらっしゃる」を使い分け、「おらす」は丁寧語程度に使います。狭い人間関係をこじらせない知恵の一つだと思っていました。

鳥取へ赴任した時、会議などで、東京弁の私の発言は結論の白黒がはっきりしているのに対し、土地の言葉による発言はテンポが緩く、結びは和らかいのを通り越して曖昧でした。方言を使いこなすことは出来なくても、そういう言い方の方がそこではうまくいく。暫くして学生から、「先生は、来た時はちゃきちゃきの東京弁だったのに」と落胆されました。秋に岡山で学会があり、居酒屋で仲間と呑んでいたら、ある女性研究者が愚痴を言って泣いている。狭い店なのにそこだけ席を詰められないので、周囲が困っています。私は近づいて、鳥取(風味の)弁で「混んどるけえ、席を詰めんさい」と言いました。「あんたになんか分かんないわよ」とパンチを食らいましたが、泣き止んで収まりました。

描かれた武

中根千絵・薄田大輔編『合戦図ー描かれた<武(もののふ)>』(2021/12 勉誠出版)という本が出ました。2019年夏に徳川美術館蓬左文庫の「合戦図ーもののふたちの勇姿を描く」展で行われたシンポジウムを発展させ、中世に現れた合戦図が近世的な価値体系の中で再編されていく過程を解明する目的で編まれたとのこと。図録編には絵巻・屏風併せて38点の図版(惜しむらくは図版ごとに色の具合が異なっている)が、論考編には総説、中世、戦国、計12本の論文が載っています。

中根さんの序言、薄田さんの総説によって、合戦図研究の現在が展望でき、10年程前の共同研究で、文学と絵画資料の研究方法について迷い続けたけれど、今なら方向性が掴めそうだと実感しました。殊に井上泰至さんの「戦国合戦図屏風と軍記・合戦図」、出口久徳さんの「源平合戦絵の展開」からは今後の進路への指針も得られ、従来のように本文だけ、または絵画史に拘らない、新たな研究分野が想像できそうです。龍澤彩さんと小助川元太さんが各々書いている河野美術館蔵「源平合戦図屏風」の論も読み応えがあります。

しかし絵画資料の読みは、容易ではありません。鈴木彰さんが取り上げた立教大学蔵の扇面画帖について、図版によって確認すると、NO1は源平盛衰記に拠ったもの(控える武者が2人だから)。NO8も源平盛衰記巻11に拠るもので、離れて見ているのは清盛でなく重盛です。NO6を業盛と判定していますが、流布本平家にはこういう場面はなく、盛衰記など読み本系か八坂系の本文に拠るのでしょう。NO10は陸上の陣内と見えます(遠山記念館の「源平武者絵」の説明が必ずしも正しくないことは、『文化現象としての源平盛衰記』に指摘してあります)。NO13の常磐都落図に雪がないのは、金刀比羅本でなく流布本平治物語に拠ったからでしょう。再度確認して下さい。

豊後便り・幸先詣篇

別府からの新年挨拶は、鼈フルコースの話でした。

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宇佐八幡宮

大分県では新年の混雑を避けるために「幸先詣で」なることを奨励しており、年末のうちに初詣を済ませるようにと広報していました。

暮に宇佐神宮に行って来ました。破魔矢を買うつもりででかけ、巫女さんに尋ねたら、明日からだと言われました。1日早過ぎたようです。】

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鼈鍋

宇佐市安心院町はスッポン料理で有名なところです。私はスッポンは1度も食べたことがありませんでした。安心院町にスッポン料理発祥の店という料理旅館(松本清張がひいきにして、東京から取り寄せていたという店)があるので、参詣のついでに食べに行ってみました。

「ふーん、こういう物か」という感想でしかありませんが、確かに精が付きそうな気はしました。清張と違って、私はもう1回食べたいとは思いません。フルコースだったので、生き血の飲み物から始まり、エンペラ、唐揚げ、鍋から雑炊といろいろな調理を食しましたが、骨の周りまでコラーゲンがたっぷり、という生物だと知りました。】

生き血を飲むとは勇気があるなあ。私が初めて鼈を口にしたのは、グルメで有名な檀一雄家から頂いたスープの缶詰でした。上手に調理してあったのだと思いますが、生臭い気がして生姜をたっぷり放り込んで恐る恐る食しました。後年、鍋も味わいましたが、鼈は鋭い歯と細長い首の不釣り合いが哀れで、好んで食べようとは思いません。

我が家は大晦日に、春日通りの桜木天神へお参りしただけです。いつもは2日に天神と本郷薬師とにお参りして(学問と健康さえ順調なら、いい1年だから)、コンビニで酔い醒ましのアイスクリームを買ってくるのですが、今年は醒ますほど呑めませんでした。

寝屋川

福田晃さんが9日午後2時に亡くなった、との報が届きました。

福田さんと知り合ったのは、軍記・語り物研究会(当時は軍記物談話会)の席上だったと思います。元気な方でした(それは90歳目前でも変わりませんでした)。そして学閥に関係なく若手や在野の研究者とつきあって、精力的に仕事をする方でした。伝説は数限りなくありますー真夏のフィールド調査の後、一行と午前2時まで呑んで翌朝、若手が目を覚ましたら、もう机に向かってパワー全開だったとか、制限時間25分の学会発表にB4で21枚の資料を全て読み飛ばしたとか、韓国へフィールド調査に行き、呑んだ後タクシーを拾い、「寝屋川(御自宅の住所です)へ行ってくれ」と言ったとか・・・

神道集や曽我物語の研究、馬飼伝承や百合若伝説など広く国内・海外の民俗学的研究で大きな業績を挙げ、『唱導文学研究』『幸若舞曲研究』などのシリーズに結実した研究会活動は永く、その中で育てられ、また薫陶を受けた人たちは膨大な数に上るでしょう。

私にとっては、歴史社会学派や柳田民俗学に惹かれながらも、「民俗学には時間がない」ことに悩んでいた時、福田さんの「頼朝伊豆流離説話の生成」(S41/6=1966)に出遭った感激は忘れられません。ここには民衆の心情を汲みつつ歴史的時間に組み込む成立論がある。その後も福田さんは次々に大著を出されましたが、この論を収めた『軍記物語と民間伝承』(岩崎美術社 1972)こそ名著だと、私は思っています。 合掌。

【通夜】2022年1月12日(水)18時30分~
【告別式】2022年1月13日(木)12時30分~13時30分
 いずれも式場は、寝屋川玉泉院 TEL:072-828-4242
https://www.keihango.co.jp/gyokusenin/hall/

体験的電子事情・会合篇

先日、アメリカのメイン州にいるセリンジャーさんとZoomで話をしました。こちらは夜、あちらは朝一番です。窓の外は雪国でした。子供が何かと用を言いにやってくると、最初は私との話の続きのまま日本語で、「無理無理、今これ(PCを指さし)だから」と言っているのに、いつの間にかすらりと英語に切り替わっている。こういう日常なんだ、と改めて感心しました。

コロナで渡日の機会が潰れ、今年は短期間でも資料集めに行きたい、日本政府の方針の見通しは?という相談でしたが、政府の方針は日本人にも分からない、と答えるしかありませんでした。さすがにアメリカとの間では、画面も音声も時々フリーズしたりするので、途切れた部分の情報を再現する気遣いが必要です。一対一では、どちらが発言するのかの機会を捉えるのが難しく、コツを掴むのに少々時間がかかりました。

今日は、36年前のゼミ生たちとWebExで新年会を開きました。参加者は6名、司会もいて、規模はちょうどよいのですが、電子環境が各々違っており、職場のPCの方を使い慣れていて私物は使いこなせない、という人もいました。各人の近況報告は昨秋の会合で済んでいるので、今日は話題が拡がりましたが、やはり介護や健康の話題が多い。健診の基準数値には無理があるという話、遠距離介護に役立つ機器の話、介護保険制度はもともと、家族の中で女性だけが介護を担わなくてもいいように作られたはずなのに現実はそうなっていないという話、死後の片付けの方が精神的にはもっと辛い、家族に看取られる終末は幸せなのだから、出来る限り頑張りましょうということに落ち着きました。

天皇制の将来の話、貧困の連鎖はどうやって断ち切ればいいのかという話、With COVIDの人間関係構築の話・・・少し重めの新年会になりました。