コロナの街・part 26

小糠雨の中、歯医者へ出かけました。かれこれ1年以上、間が空いています。緊急事態宣言が途切れず、区の感染者数が爆発的に増え、結果的にこうなったのです。B-ぐる新路線に乗って行く心算でしたが、途中の郵便局に用があって、結局歩いて行きました。久しぶりに通る道、建物が変わり、植え込みの木が大きくなり、春日町再開発のため風景も変わっていました。

まず本屋に寄りました。目についた新刊書を数冊と来年のカレンダーを買い、メモしてきた本の取り寄せを頼みました。カレンダーはとりあえず、大型の富士山と、机脇に掛ける野の花の絵柄の物を買っておくことにしました。売り場の4分の1以上はコミックで占められ、人生ハウツー物と文芸との境目がなくなりつつあることを実感しました。

歯科医院はコロナ前と同等の混み具合でした。院長もかかりつけの歯科衛生士も年を取った様子は見えず、私だけがフレイルが進んだようでしたが、虫歯は進んでいないとのことでした。かかった当初は口を開けさせたまま罵倒し続けた歯科衛生士からは、歯茎もいい、唾液が多い、虫歯になりにくい歯質なのでまあまあ大丈夫、と言われました。そういう体質に産んでくれた父母に感謝です。

支払い時に教えて貰って、開店早々のスーパーに寄りました。本郷通りに開店した店よりもこちらの方がいい。やや面積が広いせいもありますが、売り場の動線設計に無理がないのです。今日は惣菜(小海老のガーリック炒め)を買い、食材売り場は視察だけにして帰りました。どうせ数日後には、本を受け取りに来るでしょうから。

たったこれだけの外出でしたが、ここ数日鬱屈していた仕事がらみのいざこざを忘れることができました。暗くなった街に、音のない雨がやみません。

山城便り・終活篇

同志社女子大学の紀要を読み、京都府立大学が開催協力校を務めた中世会文学会に参加しているうちに、何だか京都の風が恋しくなりました。若い頃、京都の短大へ非常勤講師として通ったこともあり、週1回、四季を通じて京都の街をバスで通り抜けた1年を回想しました。そこへ、京都郊外に住む錦織さんから、久しぶりのメールが来ました。

【10月になって、これまで開いていなかった歴彩館が開き、市立図書館も開架書架に入れるようになったので、あちこちうろうろしていました。また昨日は、滋賀県野洲市で寺の住職になっている、鳥取大学の卒業生を訪ねて、久しぶりに会ってきました。死んだときにお経をあげに来てもらう(それで葬式に代える)という約束を、大分前にしていたので、どれぐらいの距離か、確認がてら、出かけたのです。

わが家の庭先の畑は、2週間ほど前にサツマイモの収穫を終えました。狭いところなのに、40個ほど獲れたので、まずまずでした。一昨日は、ニンニクを植え付けました。少しずつですが、収穫があって、楽しみです。(錦織勤)】

野洲は車で行くと渋滞する所、下り新幹線で通るとそろそろ網棚から荷物を下ろす所、祇王の生地という伝説のある所、くらいの認識しかありませんが、錦織さんは鳥取から京都へ移り住み、自由の身になってから、着実に終活もやっているんだと感心しました。

我が家の軒先では菊の蕾が出始めました。台風の塩害から3年、ようやく元気になりましたが、白菊は消えてしまい、黄色と小豆色の2種が残ったようです。パプリカの実はたった2日間で真黄になりました。アイスコーヒーはタリーズの缶入り、とこだわっているのですが、もうこれが今年最後だと買ってから何本買い足したでしょうか。

でも時は人を待たない。着実に秋は深まっていきます。

中世文学会2021秋季発表

午後から、中世文学会の研究発表をオンラインで4本聴きました。久々に中世文学について議論できた、との感想を持ったのは私だけではなかったようです。

黄昱さんの「『徒然草』の読書論」は、『徒然草』13段に見える「灯下読書」は、漢詩に影響され、灯のもとで老荘を読むという兼好のポーズを象徴するものではないかという、分かりやすい論。共有画面のPDFが読みにくかったのは残念でした。和文脈、和歌の検索が不十分、との指摘がありました。

井上翠さんの「『源平盛衰記』の終結部について」は、盛衰記自体の読みが足りないと思います。盛衰記の成立についての視点がないまま、自分の描く物語的脈絡に囚われてしまった。もしや未だに「平家物語の再構成」という目で見ているのではないでしょうね。我田引水のようですが、「源平盛衰記の「時代」」(國學院雑誌H23.6)必読。

児島啓祐さんの「『愚管抄』本文再考」は、本来こういう短時間の口頭発表には不向きな題材かもしれませんが、従来ブラックボックスだった『愚管抄』の伝本研究に正面から取り組んだ結果は、期待を裏切らないものでした。今後の困難も予想されますが、同志と共同プロジェクトを組んで、我々が安心して依拠できる本文を公刊して欲しいものです。歴史叙述の本文流動、後世の書写・校合の態様、知識人たちの交流などの諸問題は、『愚管抄』のみに留まらず他分野にも共通し、大きな視野が開けるでしょう。

田口暢之さん「配所における後鳥羽院詠」は、実情実感の歌とされる作も題詠歌と同様虚構の歌として読むことが可能だが、「遠島百首」の伝本の中には、題詠歌としては解釈しにくい歌がある、と論じます。実体験に基づく表現と虚構とを区別する作業に挑む勇気に感心しましたが、多様な角度から見るとやはり不確実らしく、議論続出でした。

中世文学会2021秋季講演

中世文学会秋季大会の講演会を、オンラインで視聴しました。

三木雅博さんの「古典文学における<継子いじめ譚>の展開と漢土の文学」。日本の上代文学には継子いじめ譚はなく、10世紀後半の物語に見いだせるようになるが、それは貴族社会の家継承制度の変化によるとしました。そして漢土では、①漢族に伝わった(孝子伝に収録される)家の承継争いをめぐる話、②漢土以外から流入してきた(仏典由来)継子への横恋慕の話の2種があり、日本の男子を主人公とする継子いじめ譚もその流れの中にあるという。うっかりスピーカーの音量を絞ったままでしたが、分かりやすい話しぶりでした。思わず、近年の痛ましい虐待事件を思い浮かべながら聴きました。

千本英史さんの「『今昔物語集』はどう読まれたか」は膨大な情報を詰め込んだ、享受史でした。画面には作り込まれたスライドが出るはずなのに出ず、私はレジュメを別ウィンドウに出しながら聴いていたので、こちらの操作の誤りかとじたばたし、集中できませんでした。学会では後日の放映もするそうですが、修訂してから流して欲しい。『今昔物語集』には早くから仮名書きの写本もあるのだそうで、表記法と新旧判定とは必ずしも固定的に結びつかない例だと思いました。教えられるところの多い内容でした。

最後に臨時総会。学会名簿の管理や会費管理などの実務を外部に委託すること、そのために学会費を値上げ(但し院生は据え置き)することが提案され、承認されました。学会員がかなり減っていること、殊に院生は会員の6%(47名)しかいないという話は衝撃でした。全般に学会事務から親睦団体的要素を減らし、おもてなし的な慣行をなくしていくことが必要だと思っています。その上で、複数の学会を兼ねなければならない事情に鑑み合理化、簡素化を図り、会員を減らさない工夫をしていくべきだと考えます。

震度4

昨夜、1日分の仕事は終わって、風呂に湯を張りながら本を読んでいたら、地震が来ました。これは大きいかな、と思ったら周囲の本棚がぎっしぎっしと鳴り始め、慌てて立ち上がりました。かなり永く揺れていたように感じましたが、何をすればいいか分かりません。ガス湯沸かし器を止めた方がいいかな、この部屋で倒れてくる家具がないのは電話の前の一角だけだな、と考えている内に収まり始めました。

東北大震災の時は職場にいたので、陶磁器と書籍の倉庫のような我が家が、強度の地震に見舞われた瞬間どうなるかを、見ていません。寝台の周囲だけは家具のない空間を確保してありますが、それ以外の壁は殆ど埋まっています。トイレと風呂場だけが安全か、と苦笑しました。幸いガスも止まらず、何も落ちませんでしたが、書類ケースの引き出しが勝手に開いていました。

TVをつけると新幹線は止まったが、それ以外の交通機関は動き(日暮里ライナーの脱線は今朝、友人からのお見舞いメールで知りました)、停電もないもよう。新総理が紅潮して官邸に入ってきます。各地からのレポートが入りますが、地震速報の背景に揺れている画面を出すのはやめて欲しい。もともと乗り物酔いしやすい体質でしたが、東北大震災以来、揺れる画面を視るだけでめまいが起きるのです(フラッシュバックなのか、三半規管の問題なのでしょうか)。文京区の震度は4だそうで、ちょっと拍子抜けしました。

吃驚したのか、湯沸かし器の自動音声も「お風呂が沸きました」というアナウンスをしません。入浴したものかどうしようかと迷いましたが、睡魔には勝てず、鴉の行水をし、パジャマでなくTシャツを着て、眼鏡とポーチを枕元に置いて寝ました。今朝になって、マスクも必携、と気がつきました。夜中に揺れたかどうかは分かりません。

経国の大業

大津直子さんの「国文学者と時局―谷崎源氏の改訳から見る、戦中戦後の天皇表象と最高敬語―」(「同志社女子大学総合文化研究所紀要」38巻)を読みました。大津さんは院生時代から継続して、さきの大戦中から戦後に亘って谷崎潤一郎が現代語訳した源氏物語、いわゆる谷崎源氏に、学者の立場から監修協力した山田孝雄、玉上琢弥の影響がどのようなものであったかを追究しています(本ブログでも何回か、その一端を紹介しました)。殊に山田孝雄の加えた朱筆は、単なる国語学的補訂に留まらず、物語の思想的立場をも左右するものであったということです。

研究ノートという範疇で書かれた本稿では、論点を桐壺巻の1節、「御つぼねはきりつぼなり、あまたの御かたがたをすぎさせ給つつ、ひまなき御まへわたりに」の最高敬語の用法に絞り、帝が更衣の許を訪れるのか否かという議論を検証しています。すぐ後の「まうのぼり給にも」の主語が更衣であることは明白ですから、対として考えればここは帝の行動でなければならず、「させ給」という最高敬語の使用は源氏物語の中では限定されていることからも、帝が主語であることは確実なのに、山田孝雄は谷崎の原稿に朱を入れ、谷崎はそれに従って更衣主語説に書き換えたらしいのです。そこには天皇の振舞をどう描くかについてのある立場(天皇神格化に沿った)があり、昭和30年になって玉上琢弥の申し入れにより、ようやく帝主語説に訂されたのだそうです。

山田孝雄は、平家物語の研究では今もなお有益な、諸本と作者伝の研究を残した人。周囲の冷たい視線を浴びながら、孤独に黙々と膨大な調査・考証作業を続けた結果だと聞いたことがあり、私としては彼1人が糾弾されるのは悲しい気がします。しかし大津さんが、勤務校で発見した昭和12年の速記録「日本諸学振興委員会研究報告」を見ながら、また今般、日本学術会議人事への不当な弾圧を目の当たりにしてこの文章を書き、こう結んだことに、つよく共鳴しました。「文章は経国の大業―記録は大事である。」

コロナの街・part 25

池袋までインクカートリッジを買いに出かけました。どうも配達購入は気が進まなくて、いつ切れるかとひやひやしながら印刷していました(この御時世、学会発表資料を視聴者に何十枚も印刷させるのはやめて欲しい)。これから大量の作業シートを印刷しなければならない予定なので、つかのまの宣言解除の間に必要なことはやっておかなくちゃ、と思ったのです。地下鉄の駅へ行くまでに、マスクなしで大声ケータイ、という男性とすれ違いました。彼には裏道の解放感でも、住民にとっては恐怖でしかありません。

2年ぶりくらいの池袋、きょきょろしながらインクと卓上スタンドの蛍光管を買いました。いつもなら、デパートへ寄って美味しい物でも物色するのですが、直行直帰を心がけることにしました。街の様子が見慣れない感じで、バスターミナルのありかが思い出せません。護国寺の方へ行くバス停、と尋ねても運転手さえ知らない。ふと見ると、宮城県のアンテナショップがあるので、入ってみました。ここでも護国寺を通るバスは分からず、王子や赤羽へ行くバスしかないと言われました。

店全体に照明が暗く、やたら元気な店員の東北弁が響きます。ほやと牛タンと味噌が一杯。県出身者なのか、中年サラリーマンが何人も、棚の商品を手に取ったり戻したりしている。その動作があまり愉快でない気がするのは、コロナのせいです。結局、蔵王クリームチーズ、仙台のソーセージ、支倉常長という銘柄の缶麦酒、それに草餅とずんだ大福を買いました。アンテナショップのレイアウトも、結構難しいものだなと思いました。

店を出たら、護国寺経由のバス停が真前にある。なるほど宮城から来た人たちには、王子や赤羽が親しくて、小石川育ちが護国寺なら誰でも知っているはずと思ったのは間違いでした。東京はその人の歴史ごとに入り口が違い、名所も違う都だったのです。