疫病退散

京都の祇園祭も、博多の祇園山笠も中止になりました。祇園社はもともと疫病退散のための社です。本来なら、今年こそ盛大に行われるべきでしたが、仕方がありません。

上代文学専門の荻原千鶴さんが、「桜蔭会会報」(お茶の水女子大学同窓会の機関紙)復刊259号に、蘇民将来のことを書いています(「疫病流行説話の周辺ー風土記の「蘇民将来」をめぐって-」)。疫病流行中に一夜の宿を求めた神を拒んだ者と、泊めた者(蘇民将来)との運命を分けた説話が、『備後国風土記逸文に見え、蘇民将来の子孫である証明が疫病からの護符となった由来が語られています。素朴な木の端切れを削って彩色し、「蘇民将来」と書きつけた郷土玩具は魔除けの人形です。人類の歴史は、疫病との戦いの繰り返しでした。医学が確立していなかった時代、疫病退散は神頼みだったのです。

平清盛の熱病は有名ですが、彼の懐刀として出世していた藤原邦綱も20日後に急死しており、両人は濃厚接触者と思われるところから、恐らく同じ感染症で亡くなったのだろうと推測されています。古来、さまざまな疫病避けのまじないが考案され、記念碑が建立されました。いま流行のアマビエもそうです。江戸時代から近代まで行われた魔除けの貼り紙に「久松留守」というのがあって、お染を疫病神に見立て、恋しい久松はここにはいないよ、来訪お断り、というアピールでした。

私はせいぜい東京っ子と東京人の間くらいで、江戸っ子ではありませんが、それでもやっぱり、疫病退散には団十郎の「睨み」がなくっちゃあ!先代団十郎襲名公演、弁慶が飛び六方で引っ込む中継放送を覚えています。昭和37年、「額にうっすら(汗の)、十一代目」という名調子でした。襲名披露の舞台(友人と観に行きました)、「ひとつ睨んで御覧に入れます」と裃の肩を脱ぐ姿も、鮮やかに思い出します。