定家の外題

佐々木孝浩さんの「藤原定家が記した冊子本の外題の位置について」(「斯道文庫論集」54)を読みました。佐々木さんは、写本の体裁(綴じ方、大きさ、書き出し位置、外題等々)と、その本の内容(ジャンル)とは関係がある、書写を専門にした人たちの間では典型、規範があったとして、その実例を集め、検討する作業を続けています。外題の位置について言えば、鎌倉時代の書写専門家の間では、「歌書は左肩、物語は中央」とされていたことが伝えられていますが、本論文では、藤原定家が書写した本について、いちいち詳しく考察しています。

きっかけは、定家筆の『更級日記』の外題(表紙に書かれた書物のタイトルのこと。本の中、本文・目録の冒頭や序文の最初に書かれた書名は、内題と呼ぶ)の位置が、中央よりやや左寄りであるのに気づいたことだったそうです。周知のように、藤原定家の業績は実作歌人として、勅撰集の2度の編者として、和歌に関する理論家としてのみならず、古典籍の書写・校訂を行ったことが現代の我々にとっても大きな意味を持っています。定家が書写した書物は、時代を経て改装されたものも少なくありませんが、京都の冷泉家に保管されていたものの中には原型を留めているものが多く、貴重な資料となっています。

本論文によれば、私家集(個人歌集)の外題は平安時代には表紙中央にあることが多かったが、鎌倉時代が進むにつれて左肩にあるようになる、格の高い勅撰集は、元来巻子本の形態を意識して冊子本でも左肩に外題があるが、私家集の社会的な地位が上がるのに伴って外題は中央から左肩へと移っていった、仮名日記や歌物語は、歌集と物語(当時は仮名文学の中で最も地位が低かった)との間に位置づけられ、私家集は次第に歌集の中に分類されるようになっていったのだ、定家の書いた外題の位置はその過渡期にあった、ということになります。納得できる結論です。