諦める

先週、春日通りを渡ろうとしたら信号が変わり、20代のOL2人連れが、「あっ、諦めよう(次の信号で渡ろうという意味)。だんだん諦めることが多くなるね」と笑っていました。なんだ、未だそのトシで、と思いましたが、多くのことをつぎつぎに諦めていくのが人生だ、というのはほんとうです。そうして掌の中に残ったものが、自分の人生になる。

アフガニスタンで亡くなった中村哲さん。眼前の不幸を見過ごせない人だったのでしょう(九州男児にはときどき、そういう熱い人がいる)。ラオスにも、ヴェトナムにも同じような日本人医師がいます。私も若い頃は東南アジア問題の専門家になろうと思ったし、高校時代の同級生には将来、国連で働くんだと言っていた人が何人もいました。日本が敗戦からようやく立ち直り、世界の発展途上国問題が目に入ってきた世代だったのです。

国旗に包まれ、悲痛な面持ちの大統領に担がれる棺をTVで視ながら、あの夢はこういうものだったのだ、と改めて思いました。体力がないから、あるいは志望した機関が女性は採用しないと言ったから諦めたような所存でいましたが、やっぱり自分には果たせなかった夢だとしみじみ思ったことでした。

誰がほんとうに民の生命と暮らしを案じたか。銃を以て支配を勝ち取って何をしようというのか。国家とか教団とかがなくなってしまえば解決するのだろうか。素朴な疑問と憤りは尽きません。我々も無念だけれど、棺の重みを肩に感じながら、あの大統領はさぞ無念だったろうと思いました。

ひとつ不思議なのは、NHKがずっと「中村さんの帰国」という言い方で通したことです、遺体でも棺でもなく。法的な問題があるのか情緒的な気配りなのか、でも報道の言葉としては、ちょっと変ですよね。