私にあります

「責任は私にあります」あるいは「任命責任は(以下同文)」、私たちはこの言葉を何回聞いたでしょうか。しかし口から出る片端から消えていって、跡形もない。本来、この語はそういう性格のものなのか。重くて、2度3度とは口にしたくない言葉だと思うのですが、あの人が言うと、そのまま空中に霧散してしまう。

大学入試英語民間試験導入延期を、「受験生に思いやりのある決断だ、高く評価したい」と言った人物がいましたが、そもそもこんな案をここまで引っ張ったのは誰?責任は誰にあるかと問いたい。政治家主導を歌い上げ、官僚の専横を叩いてきたのはマスコミも同じでした(叩くなら、彼らの弱腰と使命感欠如を叩くべきです)。

誰が決めたか曖昧なまま、でも逆らえない、逆らえば時代の流れに置いて行かれる、という思い込みに乗って誰もが、小躍りかしぶしぶかの別はあっても、同じ方向へ向いて走り続ける風潮は、怖いと思います(どの世界であろうと)。そして、誰も責任を取らない。責任を取らないので、反省もない。

原因はどこにあるのでしょうか。結局は、人間の視野が狭くなり、気骨がなくなったからだということになりそうですが、それでは救いがない。政治家が緊張感を取り戻し、官僚が使命感と専門家意識を保てるようにするには、どうすればいいのか。

まずは長期政権の慣れを吹き飛ばすしかないかーマリオの仮装もしてみたし、新帝の御前で万歳三唱もしたし、もう思い出作りは十二分でしょう。一般社会なら、「引退の花道はできた」と言うところです。しかし、長期政権が交代した後はしばらく険しく、辛い後始末の政策が続くでしょう。それに私たちが耐えられるかー腹を括るのは、有権者の方かもしれません。