積木的議論のために(5)

かつて原潜寄港反対や核持ち込み反対運動が行われた頃、私は未だ院生でしたが、早く結婚した幼なじみの友人は、市民運動の中で環境問題や平和運動に取り組んでいました。夫婦と食卓を囲んだ時、「学生たちの気持ちは分かるけど、過激な挑発をされると却って難しくなる」と言われたことがありました。いま思えば、同じ平和運動でも、男の子2人を持った彼女たちには、理念の問題ではなく切実さが違ったのだと思います。

あいちトリエンナーレの展示の一部停止と、再開、補助金打ち切り、と続く問題は、解決が難しくなってしまいました。展示再開は望ましいが、警察などに守られた(厳重な所持品検査や入場者チェックなどの)中では、それこそ表現の不自由を具現するようなものだし、当初の展示を変更したのでは脅迫者の思う壺に這い込むようなものだし、裁判を起こしても、現在の日本の裁判制度ではたぶん勝てないし・・・そもそも最初に企画した芸術監督は、どこまで本気でたたかう覚悟があったのでしょうか。

有名なコラムニストは、我々のチキンハートがつけこむ隙を作る、と述べ、名古屋市長が口を出したあたりから闘わねばいけなかった、と反省しています。たしかにあの頃が節目だった―しかし市井の多くの人々は、そうそうライオンハートで暮らすわけにもいきません。後日の影響の拡がりを考えれば、寝た子を起こしただけでも成功だった、とは言えないでしょう。

口火をつけるなら、ただの挑発なのか、現実の危機を呼び込んだ際にはどうするのか、よく考えて始めて欲しい。それが重大な問題であるなら、あるいは痛切な問題として直面せざるを得ない人たちの前では。

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