積木的議論のために(4)

「古典は必要か」もしくは「文学は必要か」というタイトルで議論するのは、不毛な気がします(ツイッターには、まるで揚げ足取りのような問答―じゃ、◯◯は必要?✕✕は?といった―が出ていて、どちらにも気の毒な気がしました)。何のために、とか、現在と未来の日本人のためには、とかいう限定をつけて土俵を設定した方がいいのではないかしら。天から降ってくる落下傘のようなタイトルで議論すること自体、無用論の思う壺に這い込むようなものだからです。

文学や古典は人間にとって必要なものです。必要でなければとっくに廃れているでしょう。では、現代日本のせせこましい高等教育のカリキュラムに押し込む理由は何か、押し込むとしたらどの程度、どんなかたちが妥当か。問題を切り分けてみせる人が欲しいと思います。中学まででは、古典というものがある、という程度しか体験させられないので、高校以降で、我々の使う言葉、風土・歴史に根ざした感覚(それらに基づいて生まれた文化)がどのように定着してきたかを、単なる知識としてでなく体験させるのではないでしょうか。それゆえ現代語訳ではいけません。以前にも書いたように、現代とは異なる言葉そのものが問題なのだからです。

円周率は約3・0と教えればいい、という指針が出て大騒ぎになったことがありました。日常生活ではなるほど、直径の約3倍が周囲の長さだと知っていれば、不自由しないかもしれません。でも3・14の先に、もっと数が続いていることは教えておいて欲しいと思います。知りたければ未だ先があるよ、ということだけは。未だ人間は、造物主のように全てを見てはいない。ならば、この世界の広さ、宇宙の遠さ、我々の足元のちっぽけさを、身にしみて知っておくべきでしょう。