積木的議論のために(1)

高校の頃、古文や英語がなぜ面白かったかというと、(特に英語の場合)単なる記号(ABC)の羅列でしかないものが、辞書を引き、自分の想像力を動員してつなげていくと、意味を持って生きて起ち上がってくる、その悦びだったと思います。知らない世界が眼前に展開してくる、わずか辞書を引くだけの労力で―それは未だ稚い自我にとって、万能感にも似た励ましを与えてくれる瞬間でもありました。

古文の場合は、うすうす何を扱っている文章なのかは分かるけれど、ところどころに小さな瘤のような、いまひとつ納得できない部分があって(それはたいてい助詞や助動詞でした)、そこが解ると、現代語では表現しきれない、微妙な含蓄がぱあっと拡がり、一気に照明があかるくなったように世界が見える―だから助動詞の基本的な意味を理解できるための文法は、無味乾燥ではありませんでした。

いま思えば、強圧的で無茶な教師たちでしたが、10代でめぐり遭った彼等のおかげかもしれません。英語は、とにかくたくさん、文学作品を読ませられました、高校でも大学の一般教育でも。古文は高校1年目で体系的に文法を叩き込まれ、教科書の『徒然草』はその用例集代わり。2年以降は辞書さえあればたいていの古文は自分で読めるので、どんどん読みました。すると、面白い。授業でなく読書になったのです。

一方、西洋史や地理、実験を殆どしない物理は単なる事項の暗記しかなく、つまりませんでした。漢文も同じ。数学は語学に似ていたし、生物は身近に興味のある実例が豊富で面白かったけど、受験用に編成されたカリキュラムのため続けて履修することが叶いませんでした。

学ぶことって、何だろう―あのわくわく感には、その後もたまに、研究や鑑賞の現場で出会うことがあります。たとえ一瞬でも、人間に生まれてよかった、と思う瞬間です。