源平の人々に出会う旅 第32回「深谷市・忠度と六弥太」

 寿永3年(1184)2月、搦手の義経軍は鵯越の逆落しで平家館の背後を襲い、館内の人々は海上へと逃げ出します。海岸沿いでは平家の公達が次々と命を失いました。

【普済寺】
 清盛の弟で歌人の忠度は岡部六弥太忠澄に討たれます。忠度は最後まで名乗りませんでしたが、所持していた和歌「行き暮れて木の下かげを宿とせば花やこよひの主ならまし」により本人と判明します。六弥太は現・深谷市岡部出身の猪俣党の武士で、市内の普済寺は六弥太の創建と伝わり、寺号は六弥太の法名から取ったとされます。

f:id:mamedlit:20190903112834j:plain

 

【忠度歌碑(普済寺)】
 忠度の最期は、『平家物語』の諸本によって記述が異なります。和歌については、覚一本は「箙にむすび付けたる文」、源平盛衰記は「一巻ノ巻物」としていますが、延慶本は「行き暮れて」歌のエピソードがありません。

f:id:mamedlit:20190903113239j:plain

 

【岡部六弥太忠澄の墓】
 源平盛衰記は、六弥太は恩賞として忠度が知行する庄園五箇所を賜ったとしています。清心寺(深谷市)には、六弥太が供養のために建てたという忠度の墓があります。六弥太と父行忠の墓は普済寺の近くにあります。

f:id:mamedlit:20190903113419j:plain

 

【岡部神社】
 六弥太は『保元物語』『平治物語』にもその名が見え、斎藤実盛らと共に源氏に従っています。『平家物語』では石橋山の合戦に参加しています。岡部神社は、六弥太の祈願所と伝わっています。

f:id:mamedlit:20190903113843j:plain

 

〈交通〉
 JR高崎線岡部駅
    (伊藤悦子)