記し遺す

古代中国で、正しく政治の記録を遺すことは命を賭けるに値するとされていた、という有名な説話があります。暴王の悪逆を国史に記した記録係(史官)が怒った王に殺され、にも関わらず、頑として書き残そうとする者が絶えず、遂に王が諦める話です。原話は『史記』や『春秋左氏伝』にある、崔杼という人物の話ですが、『太平記』にも見え、それぞれちょっとずつ違っていて面白い(各書の強調したかった細部が異なる)。『太平記』と漢籍に関する研究に詳しかった増田欣さんは、『太平記』は『貞観政要』や『長恨歌』『長恨歌伝』をも併せてこの挿話を構成したと考証しています。

太平記』では、流布本・天正本・西源院本など主な諸本には殆ど同じ内容で語られています。巻35(天正本は巻38)、世の混乱はどう収まるとも予測がつかない延文の頃、北野天神で通夜していた武士・公家・僧侶鼎談で、公家が上を諫める忠臣の重要性を説く例話です。兄の婚約者楊貴妃を奪った玄宗皇帝の暴虐を、史官が史書に書き残したことを知った玄宗は、史官を死刑にするのですが、魯(孔子の国です)から次々に史官志望者がやって来て仕え、玄宗の所行を書き遺す。

史記』では、崔杼が主君を殺したことを史書に記し遺した史官を、崔杼が殺しても殺しても、その弟が書き遺す。『左史伝』では崔杼が主君を殺したと書いた木簡を、史官の弟たちが次々宮中へ持参するのですが、弟たち全員が殺されたと聞いた者が、同じ事を竹簡に書いて駆けつける―70年前、昭和天皇の、さきの大戦に対する悔恨の思いを洩らさず書き留めた宮内庁長官のノート。それを焼却させなかった息子が、えらい。

激動の中に生きている者こそ、日々猶予のない自分たちの選択に謙虚であって、将来の検証のために書き残していくことの必要を知っている。そうありたいものです。