慈円の文化圏

尾崎勇さんの論文2本を読みました。「梶原景時の頼朝救済の説話をめぐって―『愚管抄』と『平家物語』のあいだ」(『説話の形成と周縁 中近世篇』臨川書店)・「今様をうたう徳大寺実定の意味―屋代本『平家物語』からー」(「文学・語学論集」49・50合併号 熊本学園大学)の2本ですが、どちらも精力的な労作です。

尾崎さんは、仁治元年『兵範記』紙背文書に見える「治承物語6巻」にこだわり、これを原平家物語とみなし、その形成された文化圏を描き出そうとしてきました。すでに『愚管抄』に関する大著も3冊出し、慈円が第3世院主を勤めた西山往生院周辺で、承元4(1210)年頃から原平家物語が創られたとの仮説を立て、続々とその世界を拡大、補強しています。最近は原平家物語=治承物語は頼朝の物語であった、としていて、読み本系に古態を見出す近年の平家物語研究をも踏まえて構想しているようです。

とにかくたくさんの先行研究を引き、たくさんの資料を持ち込み、多彩な話題を盛り込んで大部の文章をつぎつぎに書いていくエネルギーは、驚嘆して眺めるほかありません。前者は、頼朝が旗揚げ初戦で大敗し、山中の洞穴に隠れた際に、追手の梶原景時が見逃す挿話(読み本系に見える)を取り上げ、頼朝の眼光の描写に注目しています。後者は福原遷都後、徳大寺実定が旧都を訪ね、今様を歌う「月見」の場面を取り上げ、屋代本が最も原平家物語に近いと推測しています。

これはもう、ひとつの「物語」ではないでしょうか。「ジャーナリズムに乗れば定説」になりかねない現代では、学説も物語にしないと認めて貰えないこともあり、自分の研究を物語としてまとめられるのは一種の能力でもありますが、平家物語成立当時の社会相と、平家物語内部の虚構世界とは弁別されているのでしょうか。なお屋代本は、抄略によって簡潔な表現になったのだと、私は考えています。