大天狗

菱沼一憲さんの論文「「大天狗」頼朝書状からみる政治の舞台裏―文治元年の諸国地頭制度・廟堂改革をめぐって―」(國學院大学栃木短期大学「日本文化研究」4号)を読みました。

文治元年(1185)12月に頼朝が全国に守護地頭設置を許可され、この制度が実質的に武家政権の基盤となったことはよく知られており、近年では、鎌倉時代の幕開けをここに置く見解も出て来ています。頼朝はこの制度の勅許を願う理由に、源義経・行家が10月に頼朝追討の宣旨を得て国内を移動し、治安が悪化していることを挙げ、後白河院に強く抗議しました。この間、鎌倉と後白河院を中心とする京都政界の間で激しい政治的駆け引きがあり、11月に高階泰経からの使者が持参した弁明の書簡に対する返書の中に、頼朝が「仍日本国第一乃大天狗、更非他者候歟」と書いていることは有名です。従来は激怒した頼朝が後白河院を評した語とされ、返書の宛先である高階泰経への評だとする説も出されましたが、菱沼さんは、義経・行家両人を指すのだと主張しています。

頼朝返書の文脈から問題の一文を、行家・義経の謀反を「天魔の所為と仰せられるが、彼等自身が大天狗そのものなのだ」と解釈しています。この書簡を載せる『吾妻鏡』『玉葉』の前後の記事や、京都政界内の動きをたどりながら述べられる解釈には、説得力がありますが、ただ大天狗とは天狗の王であり、「日本一の」という語も気になります。今後、日本史の研究者の間で検討されることでしょう。

いくら憤懣に駆られたとはいえ、冷徹な政治家頼朝の書簡の文言としては、たしかに違和感があります。激動の世に数奇な運命を克服して生き延びた後白河院像への思い込みが反映した解釈を、改めて見直す時機とも言えましょうか。