寿永3年(1184)1月20日、東国の範頼・義経軍が宇治・勢多に到達します。京の義仲は、仁科・高梨らを宇治に、今井兼平らを勢多に派遣し、敵の侵入を防ぐため宇治・勢多川の橋板を外します。
【平等院】
延慶本『平家物語』は、義経が、宇治川端の在家を焼払い居住者達を皆殺しにしたことを詳細に記し、『源平盛衰記』は、その後に平等院から持ち出した太鼓を打たせて軍勢を指揮したと記しています。
【橘の小島と宇治橋】
宇治川の中州にある橘の小島崎から、真っ先に川に飛び出したのが、生食・磨墨に乗った佐々木高綱と梶原景季でした。いっぽう、宇治橋では、熊谷直実父子や平山季重らが橋桁を渡ります。
【橘橋】
橘の小島は『源氏物語』宇治十帖にも記され、歌枕としても知られています。現在は平等院のほぼ正面に位置していますが、当時とは少し異なるようです(明確な位置は不明)。
【源頼政の墓(平等院)】
遡ること治承4年(1180)、同じ場所で激戦が行われました。源頼政と以仁王の挙兵です。この時は、宇治の橋桁で一来法師らが活躍し(橋合戦)、足利又太郎が馬筏を作って宇治川を渡っています。