自動詞

3月14日は、アメリカではパイの日だそうです(円周率に引っかけて)。それで昨日の朝日新聞朝刊に、「パイの日に考える数学」と題するコラムが載り、「正多角形の外周は三角関数を使うと求まる。」という一文があって、引っかかりました。「求める」は他動詞であって、可能の助動詞をつけても自動詞にはならない、と思ったのです。

よく料理番組で「炒まったら」という言い方を聞きますが、変だけど、言い換えが難しいからまあしょうがないかな、と思っていました(この場合の助動詞は、自発でしょうか受身でしょうか)。ふと「つとまる」も、元来、他動詞(つとめる)の派生語ではないのかと気づき、でも「つとまる」は、否定形(例:あいつにはつとまらないだろう)かそれに近い意味(例:私でもつとまる)の用法が多いような気がして、辞書を引いてみました。愛用の『明解国語辞典 改訂新装版』(昭和42年4月)では、「炒まる」も「求まる」もありますが、俗語となっています。「つとまる」はれっきとした独立項目でした(昭和51年の『日本国語大辞典』では3語とも独立項目)。

ふうん、そうなんだ―花火が「打ち揚がる」という言い方に躓いた話は、昨年8月に書きましたが、荷物などが「積み上がる」という語にも引っかかります。しかしある時、自分でも使ってしまって、苦笑したことがありました。他動詞が自動詞化する現象は、近年増えているような気がします。誰がやったか分からない動作の結果については、主語が何であれ自動詞で表現するようになったのかなと思います。国語学の方ではすでに、研究されていることなのでしょうか。

数学の計算結果がひとりでに出てくるような、「求まる」という言い回しに抵抗があるのは、文系生活が永い私だけの感覚なのかもしれません。