徒然草の誕生

中野貴文さんの『徒然草の誕生―中世文学表現史序説』(岩波書店)を読みました。久々に「文学とは何か」を意識した正統派の、しかも(片仮名用語をむやみに振りかけてぎらぎらさせるような)背伸びをしていない評論を読んだ気がします。

本書は、序章「随筆」という陥穽 1『徒然草』第一部の始発―「消息」という方法 2『徒然草』第二部の転回ー新ジャンルの創成 付各段鑑賞 跋章随筆の誕生―式部から兼好へ という構成になっており、ここ15年ほどの間に書き溜めた論文を組み合わせて、従来のジャンル意識を一旦解体し、新たに文学史的脈絡の中で、『徒然草』という作品の独自性を、「書く」という営為の意味を見据えながら論じています。

独特な点は、『徒然草』第1部を宛先のない消息文、継承者のいない口伝と同じ性格のものだとし、しかも『源氏物語』の須磨流謫時代の光源氏のような、優雅な隠遁者を理想として演じながら書いたとする見解です。第一部は自己との対話、第二部以降は三人称、見る人の視点へと移っていく、と分析しています。全体的に、作者兼好の実像や随筆文学の自照性といった呪縛から放たれ、兼好の時代に、なぜこのような作品が書かれたか、なぜ書くことができたかを考えようとしています。

一々の部分の読みには、疑問や反論の余地もありそうですが、とにかく文学を文学として読もうとする姿勢が嬉しい。究極の作品論とは、対象とする作品を改めて読み直したい気にさせるものだと思うので、まさにそういう本になっています。

教育現場や一般の読書人にもお奨めできる本です。些細なことですが、「結果」という語を接続詞のように使うのは(近年の若い人の話し言葉に多い語法)、おちつかない。「その結果」、または「結果的に」「結果として」などが大人向きかと思います。