卒論指導

松薗斉さんが自著のあとがきで、学部時代の卒論の思い出を書いているのがほほえましく、ちょっぴり苦く(似たような覚えが誰にもあるはず)もあります。指導教授の川添昭二先生に、早歌(宴曲)研究をしたいと申し出たが、微笑まれるばかりで何も返事されず、それは否という意味だったので、『看聞日記』に替え、着手したものの事前発表はかんばしくなく、いまも封印したい思い出だとのこと。

かつて指導教授は、応否をはっきりは言わないのがふつうでした(私の周囲ではそういう例が圧倒的)。私の場合、学部の指導教授は専門が異なる井本農一先生で、卒論を提出するまで、私の名前を正確には覚えておられませんでした。いちいち訂正するのも何なので、誤った苗字で呼ばれてもお返事し、研究室の助手が変な顔をしていました(いつの間に結婚したの?)。

大学院の恩師は市古貞次先生でしたが、ご自分の思い出話に「藤村作先生は、何度お宅へお邪魔して論文の構想をお話ししても、膝の上の猫を撫でながら、はあ、はあと言っておられるばかりだった」と仰言るので、こちらもそれ以上はお願いできませんでした。修論提出時は大学紛争続きで殆ど授業もなく、何をどうすればいいのか見当もつかず、2回目の留年の相談をしに行ったら、それは駄目だと言われ、最後の1週間は寝床に入らず、書き上げました。口頭試問の時に、ああいう研究もあるよ、と仰言ったので、否定的評価に対して弁護して下さったのだな、と推量しました。

自分が論文指導をする側になった時、卒論段階では本人の個性や進路に合わせて、誤った方向へ逸れないようにするだけ。修士段階ではふわっと、本人の研究テーマを見失わないようにするだけ。けっきょく何も言わない指導が、最高の指導なのかもしれません。