佳日

よく晴れた穏やかな日、朝の家事を済ませて腰を下ろし、珈琲を淹れる頃、宅配便がやってきて、仕事仲間からの献本を届けてくれる。期待に満ちて包装を解き、紙の匂い立つ新本を開いて、まず目次、まえがき、あとがきを読み、再び目次に戻ってきて、どういう本なのか、どこから読もうかと考えを廻らせます。至福の時です。

老後、誰にでもこういう平和な時間がしばらくあってもいいのではないか、いやそれを保証するのが政治や社会制度ではないか・・・体力の続く限り働け、それが人間の幸せだろう、と言わんばかりの「すべての人が輝く」云々の宣伝には、警戒したいと思っています。ちょっと身を引いて、自由になって見えるもの、できることがある、それが誰にでも順番にやってくる役割なのだと。

しかしたまには、必要があって取り寄せた本が期待外れ、いや憤慨を誘うこともあって、平和はたちまち破れます。現役時代に何をしてこなかったのがいけなかったか、今から何ができるか、という考えが浮かんで来るのを、なるべく風船を手放すように宙へ逃がすことに努め、コーヒーカップに手を伸ばすのです。

陽の当たるベランダでは黄菊の蕾が開き始め、郭公薊の花房の冴えた紫色に、小さな蜂が引き寄せられて羽音を立てています。ゴールズワージーの『小春日和』は、高齢の主人公が、金鳳花の花むらに寄ってくる蜜蜂の羽音を聞きながらまどろむ場面で終わります。当時高校生だった私は、英語教師が、これは蜂の羽音ではなく耳鳴りだ、主人公には死が近づいて来ているのだと説明するのが、信じられない思いでした。残り時間で何をするか、それはどのくらいの余裕があるのか、当人にはわからないところが人生の妙、というべきでしょうか。