就職面接

我が家では正月2日にめいめい墨を擦って、書き初めをしました。ある年、私が『万葉集』の「君が行く道のながてを繰りたたね焼きほろぼさむ天の火もがも」(巻15 狭野弟上娘子)を書いているのを見た父が、その歌は就職面接の時に訊かれた、と言うのです。昭和9年、商工省の採用試験で、面接官の岸信介(当時は課長級だった)からいきなりこの歌を示され、知ってるか、と質問されたそうです。何と答えたのか訊くと、知らないけどいい歌だ、と答えてぶじ合格したらしい。恋人の流罪という背景のある歌で、「繰りたたね」という古語もあり、果たして初見で理解できたのだろうか、と思いますが、たぶん、とっさにそう答えた機転を評価されたのでしょう。『万葉集』は国民的教養だったのです。

鈴木久美子さんの『万葉のひびき』(本阿弥書店)という本が出ました。鈴木さんは岡野弘彦さんのお弟子さんで、本書は歌誌「玉ゆら」に連載した、万葉歌60首をめぐるエッセイです。実際に奈良を歩き回った思い出が、ふんだんに盛り込まれています。どういう基準で選んだ歌なのか、本書の構成(配列)は何によるのかなどは、気にせずに楽しんで読むべきなのでしょう。装幀も優雅です。

ふと思ったのは、万葉歌にも、永い研究史の上で幾重にも巻きついた伝説(レジェンド)があるのだろうなあ、ということでした。一般の読者や愛好家は、それらも含めて「万葉歌」として記憶し、味わうのです。平家物語を、琵琶法師が語って歩いた語り物だとするロマンに惹かれて、現代人が夢想するのと同様に―日本人にとって、「あおによし」奈良の地は、それらのレジェンドをまとった心のふるさとなのです。