稲庭うどん

秋田名物稲庭うどんには、苦い思い出があります。もう30年以上前、私は世田谷の小さなマンションの4階に住んでいました。非常勤先で遭ったフランス語の講師(都立大教授でした)が、高校の先輩だと分かり、帰りに渋谷で呑むことにしました。美人の若いママの店でしたが、平日なので他の客は殆どなく、私たちは思う存分お喋りをしました。そろそろ締めようかという頃、ママが美味しい冷酒がありますと言う。話に夢中になっていた私たちはそれを注文し、締めに美味しい稲庭うどんがあります、と言うママに任せて食事を済ませました。さて勘定書を貰ったら、高い!先輩は思わず首をかしげましたが、食べてしまったものは仕方がないので、その通り払って出ました。

週末、最近1階に越してきた奥さんが、赤ちゃんを抱いて回覧板を届けに来ました。ふと顔を見ると、あのママです。さっと彼女の顔色が変わりましたが、そのまま何食わぬ顔で別れました。それ以後、私と先輩はあの店へ入ることはなく、ママも回覧板を持って来ることはありませんでした。

爾来、稲庭うどんを注文するのは何となく心理的抵抗があって、あまり食べませんでした。しかし昨日、秋田の駅ビルで、仕事の打ち合わせをしながら慌ただしく食べた稲庭うどんは、だしが美味しく、のど越しがよくて絶品でした。

年を重ねるにつれ、いろいろなことや人と折り合って、落とし前をつけていくようになります。秋田で私は、稲庭うどんと和解したのでした。