叙事に泣く

明日(10月6日)16:20頃から、和歌文学会(於國學院大学渋谷キャンパス2号館)で講演をします。要旨は以下の通り。詳細は和歌文学会のHPをご覧下さい。

平家物語』の表現―「叙事に泣く」ということ―
 かつて『平家物語』の叙事と抒情という問題、中世散文文学における和歌のはたらきという問題を考えたことがあった。早く、中世文学を代表する美意識を新古今的なものと平家物語(もしくは説話文学)的なものの対立ととらえる文学史観があって、その枠組を意識したが、論じ尽くせなかったことが幾つも残った。
 爾来、研究状況は大きく変わった。現在の中世文学研究をふまえて考えるなら、新古今的なものと平家物語的なものは二元的対立ではなく、『平家物語』よりもさらに向こうに対立軸を立てねばならないのではないか。二つの美意識は、『平家物語』諸本群の中に含まれ、その外側に注釈文芸や唱導文芸、室町物語、縁起などの分野が広がった。
 さて『平家物語』研究の現状を見ると、「何が」書かれているかに集中しすぎている観を否めない。文学は、何を語っているかのみならず、どう語っているか(何を語らず、何を隠したかも含めて)が問題でなくてはならない。どのような言葉で語り、どのような推進力を根底に持つのか、そこに作品固有の魅力が由来するからである。
 現代の『平家物語』享受者の多くは、詞章のリズム感と人物たちのけなげさに惹かれるという。その「けなげさ」への感動は、じつは表現の力によるところが大きい。しかし従来繰り返されてきた語りや文体に関する説明は、硬直した部分も多く、なお不十分である。
 和歌文学研究を見て羨ましいのは、一に言葉にこだわって読むことが作業の必須であること、二に詠作年代や作者伝などの個別事情に関する資料が多いということであるが、軍記物語は、史実性を実現するには個別性、具象性を必要としながらも、一般性の保証のためには無名性を必要とするという、矛盾をはらんでいる。その点に注意しながら、『平家物語』独自の表現方法、文体の獲得(それが物語の「成立」である)について考えたい。