さよならの代わりに

久しぶりに山口百恵の歌う「さよならの向こう側」を聞いて、感動しました。発売当時は、彼女の引退公演用に作られた曲というイメージが強く、百恵引退という社会現象の方が印象に残ったし、三浦祐太朗が歌った時も、親子ってそっくりだなあという感想が先に立って、歌そのもののよさを知るのに今までかかってしまった、というところです。丁寧に、しずかに、遠くへ視線を投げながら歌う百恵は、あの時どこまでを見ていたのでしょうか。歌曲が、作品として独立し、それを歌う歌手として自分が視られるようになる日が来ることを、考えていたのかどうか―作品とその伝え手との関係を、改めて思いました(個別性と一般性、実名性と無名性との関係は、歴史文学の重要な課題でもあります)。

こんなことを考えたのは、樹木希林の終末を追うドキュメンタリーを視たばかりだったからかもしれません。最期まで人と組んだ仕事の出来ばえを気にすること、死や別れに向かって準備するということ、自分にもそういう時機が近づいていると思わなければ、と反省したからです。あの女優は個性的で、重たすぎる部分と軽快でコミックな部分とを持った大人でした。本人は気づいていないが、ふと杉村春子を髣髴とさせる瞬間もありました。もう少し軽くなるまで、生きていて欲しかった気もします。

葬儀の際の写真を用意しておくとか、棺の担ぎ手を指名しておくとか、仲間うちでは冗談交じりにそんな話も出るようになりましたが、BGMにこの曲を指定しておいてもいいなあ、と思ったりしました。受付でこの曲を、待合室ではギターソロを、出棺にはラヴェルパヴァーヌを。