野分のあした

台風が過ぎて、朝のベランダは狼藉そのものでした。一抱えもある梔子の鉢2つ、石榴の大鉢1つが転び、デッキブラシが飛び、鶏頭の苗は倒れ、小菊の茂みはざんばら髪のようになり、アゲラタム(郭公薊)も揉まれてよれよれになっていました。梔子に頼っていた蟻たちが右往左往しています。鉢を起こしてやると、根元の巣穴めがけて、真っ直ぐに幹を降り始めました。重力で方角を知るのでしょうか。

枕草子』を初めて通読したのはいつだったか、野分の過ぎた朝の描写に、あるある感を覚えて好きになりました。「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ。立蔀、透垣などのみだれたるに、前栽どもいと心くるしげなり。(中略)格子の壺などに、木の葉をことさらにしたらんやうに、こまごまと吹き入れたるこそ、荒かりつる風のしわざとはおぼえね。」などから、子供の頃、庭にはコスモスが倒れ、窓枠の溝や竹垣の頭部分の竹の節に溜まっている木の葉を、1枚ずつ拾ったことを思い出します。源氏物語でも、野分の風のいたずらが印象的な役割をしていますね。

今朝は虫の声が一際高く聞こえました。暑かった夏に元気がよかったのは、百万竹とジャスミンでした。定年祝いの花束に入っていた百万竹を挿し木しておいたのがぐんぐん伸び、私の背丈に追いつき、4本も新芽が出て、鉢を分けてやらねばと思うのですが、冬は室内に入れなければならないので、数を増やすのを躊躇しています。路地植えのムスカリはもう、芽を出し始めました。初夏に掘り上げておいた球根も、そろそろ植えてやらねばなりません。

どうやら、苦しかった夏は越えられたようです。