宗祇から紹巴まで

鶴崎裕雄さんの「宗祇から紹巴までー連歌における室町後期と織豊期の相違ー」(「芸能史研究」220号)を読みました。①応仁ー元亀年間(1467-1573室町後期)と②天正―文禄年間(1573-1615織豊期)とでは、連歌師と、顧客に当たる地方大名・武士たちとの関係が変わり、①では京都の連歌師が地方へ、大名・武士を訪ね、②では地方から大名・武士が上洛して連歌師を訪ねるようになることを、連歌師の紀行文や日記を資料に考察しています。

連歌師としての宗祇と紹巴の年譜を比べてみると、紹巴の方が若く(20代)から名を成していたらしく、宗祇は40代以降、地方への旅が多くなることが判ります。室町後期・戦国期には連歌師たちは盛んに地方へ下り、地方の国人領主たちはこれを歓迎し、都の文化・古典の知識を吸収しようとして、多額の餞別銭を提供しましたし、連歌師の方も、顧客の文芸好きと繁栄とを寿ぐ言葉をサービスしたようです。織豊期には前代に比べ旅がしやすくなり、地方武士たちが大名に従って続々上洛し、連歌師を訪ねて共に時を過ごすことが多くなったそうです。

この時期は、平家物語が次々に混態本を編集、成立させていた時期に当たります。戦争が交通を発展させる、とは近代の欧州でよく言われることですが、日本の中世にも通用するらしい。地方武士たちの文化水準は、徐々に上がって来ていたのでしょう。鶴崎さんの手紙には、近年の銭の研究の進展に瞠目しながら、新たな勉強に取り組んでいる、とありました。連歌師の活動を知ることが、さまざまな分野につながっていくと分かりました。