教師たち

我々の時代、学校の「先生」はお友達ではありませんでした。小学校では、児童と教師(家庭内では、子供と親、も同様に)、はそれぞれ別世界の生物と言ってもいいくらい、厳然たる区別がありました。中学になると、生徒と教師は、子供と大人という別の範疇ではありましたが、子供なりにいろいろな大人を観察する余裕ができ、教科や部活ごとに異なる「大人」(中にはかなりの変人もいた)を見て、(教科以上に)学ぶところが多い毎日でした。

高校(もと女子校の都立進学校だった)では、楽しく過ごしたという同級生もいますが、私の周辺には「暗黒時代だった」という共通認識があります。頭ごなしに伝統と受験の重圧をかけられ、口答えは人非人のすること同然でしたから。しかし当時は前進あるのみという年齢だったので、乗り越えていくことができました。

自分が教師になって振り返ると、随分ひどい教育だったなあと思う例もありますが、それなりに、おかげさまで、と言えるメリットもあったのです。いま同級生たちと会って「あの授業のおかげで・・・」と言い合うのは、英語と古文です(とにかく自力で読める力をつけてくれた)が、当時は無茶で横暴だとの評判でした。

例えば英語は、1学期に教科書を終わらせ、副読本と称してC・ラムの「シェイクスピア物語」やH・ミラー、O・ワイルド、J・ゴールズワージーの「林檎の木」等々を読まされました。親の本棚にはそれらの文庫本があったので(旧字・旧仮名遣いの翻訳でしたが)、恐怖はなく、細切れの教科書よりもまるごと読む小説は面白くもあり、自信もつきました。古文では文法を徹底して叩き込まれ、作品は単なる実例扱いでしたが、合理的な解説と記憶法のおかげで、辞書さえあれば何でも読める実力がつきました。

つまり、教育効果とは、マニュアルや評価基準どおりにはいかないのです。むしろ教科書通りに教える授業は退屈でした。教師用指導書をこっそり買って来れば、寝ていてもいい。あくの強い教師の、自前の教育法こそが半世紀後にも役に立ったと感謝される。しかしその当時は、誰にもそれは保証できない、危険な賭けでもあったのです。いま、そんな教育が可能でしょうか。教師にも、その覚悟はあるでしょうか。