和歌の鶴

木村尚志さんの論文「院政期和歌と自然―女房文化との関わり―」(「和洋國文研究」52 2017/3)と「和歌における「鶴」―高内侍と西行の和歌を繋ぐものー」(「和洋女子大紀要」57 2017/3)を読みました。前者は「虫めづる姫君」から虫合、俊頼・仲正・西行らや宮廷女房たちの山里を詠む歌を取り上げた、視野の大きなもので、新書1冊くらいで丁寧に書く内容でしょう。

後者は白居易の詩句「夜鶴憶子籠中鳴」に基づく歌語「夜の鶴」が、伊周配流に際して母の高内侍が詠じた歌(栄花物語)と、170年後、敗将平宗盛処刑の報に接して西行が詠んだ「夜の鶴の都の内を出でてあれなこのおもひにはまどはざらまし」とに詠まれていることを取り上げ、この時期の和歌における鶴のイメージ(親子の情愛を表す「夜の鶴」「鶴の子」、述懐に使われる「沢辺の鶴」「蘆鶴」)を検討して、院政期の「家」意識の変化を指摘しています。力作です。

西行の時事詠は詞書ともども分かりにくいところがあって、上記の歌の解釈については論争があります。私も『軍記物語原論』でちょっと触れたのですが、脚注が不十分だったことを反省しました。この歌の詞書に引かれた宗盛の最期の言葉「母のことはさる事にて、右衛門督のことを思ふにぞ」の「母」は、宗盛の母とも、右衛門督の母つまり宗盛の亡妻ともとれますが、私は後者に宛てて、「あの子の母親はもう死んで、その時も悲しかったが、今はあの子(右衛門督)のことが一番気にかかるのだ」と解釈しました。また木村さんが西行歌を、(宗盛は)「都のうちを出て行かなければならない、そうすれば子への思いに惑うこともないであろう」と訳すのには引っかかります。何故なら平家物語によれば都へ帰ることを切望していた宗盛は、ついに都へは入れられず、近江で処刑されたのだからです。「都には入らぬままでいなさい」と訳すべきでしょう。