土岐善麿の新作能

岩城賢太郎さんの論文「喜多流「綾鼓」の成立と土岐善麿・喜多実協同の新作能創作―喜多流の戦後復興との関わりから-」(「武蔵野文学館紀要」第8号)を読みました。土岐善麿は戦後、ローマ字運動や国語審議会委員、仮名書きの多い口語短歌、そして新作能を試みた人として、私にも記憶があります。

現在喜多流が演じる「綾鼓」は、単なる復曲ではなく、喜多実が演じることを前提に土岐善麿が大幅に改作したものであること、戦中戦後を通じて彼の新作能は、社会情勢と深く関わらざるを得なかったことが詳細に述べられています。芸能固有の問題がまざまざと浮かび上がって、最近平家語りを扱っている私としては、興味ふかく読みました。

古典芸能が伝統を絶やさぬ為には、新作に挑戦することが必要だ、というのは意欲的な芸能人の正論なのでしょうが、例えば国立劇場が披露する雅楽の新作(赤い外車の上でピストルをぶっ放したり、ギリシア劇のコロスばりに歌手が歩き回ったり)などには、必然性が感じられません。新作能の場合も、演者が何度も演じたくなり、観衆が演者を換えてまた観たくなる、という結果が出て初めて成功したと言えるのでしょう。聞いたところでは、能には番外曲や上演記録の見出されない曲が山ほどあるのだそうで、中世以来「新作」は繰り返されて来たらしい。研究課題は未だ未だ尽きないようです。

戦時中、皇室との関係に神経質になっていた能楽界が、立太子礼の奉祝として「綾鼓」を上演したことを以て、人々が新時代の到来を実感したとすれば、現代の研究者たちには、その感覚がなかなか分かりにくいのではないでしょうか。1991年に大河ドラマ太平記』が放映された時、「戦争が終わった」ことを改めて語り合った世代は、もはや少数派になりつつあるからです。