思想史と平曲保存

鈴木啓孝さんの「伝統芸能者の「遺言」にみる国民文化―平曲家・館山漸之進の「情願書」を素材に―」(東北大学「文芸研究」183号 2017)を読みました。鈴木さんは明治20年代の日本ナショナリズムの興隆について、津軽藩を中心に研究し、自ら思想史的な関心から分析を試みると断わっていますが、思想史と文学研究とは別世界のものではなく、どちらも科学である以上、幾つか見逃せない誤りもあり、いささか悲壮感を帯びた文体に違和感を覚えながら読みました。

論文は、明治4年(1871)に新政府が出した盲官廃止令によって存続の危機に瀕した平曲の国家的保護を訴え続けた館山漸之進の業績をたどり、平家物語の諸本調査とその結果に基づく国語学資料の研究に尽瘁した山田孝雄と対置しながら、伝統芸能が自発的に帝国主義に組み込まれていくことを指摘しています。館山漸之進の第二主著『平家物語史論』は、私が研究を始めた頃には未だ古書店で見かけることがあり、『平家音楽史』を苦心して入手した私は、店頭で開いてみましたが、とうてい客観的な研究の指針にはならないと感じて買いませんでした。

館山は山田が『平家音楽史』に寄せた序文に不服でしたが、現在の我々は各々の業績を冷静に位置づけることができるはずです。山田孝雄の諸本調査の成果を、「文部省主導による国語調査の結果、実際に『平家物語』をめぐる歴史と伝統に対する誤解が発生」と括ってしまうことは、正しいでしょうか。そもそも山田は問題の序文で「語り物が先きなるべき」と繰り返し主張しており、また延慶本の書誌が古い年代であり、灌頂巻を特立しないことや六巻形態が原態を推測させるとは言っていますが、「延慶本が平家物語の原初の姿にもっとも近い」(鈴木論文)とはしておらず、「平家最古の本とはいふべからず」と言っています(『平家物語考』で、延慶本に見える助動詞が鎌倉時代の語法を最もよく残していることを指摘していますが、延慶本全体を最古態とはしていません)。鈴木さんは『平家音楽史』を自分の眼で読んだのでしょうか?

なお室町幕府平家物語の正本を管理したという説は、すでに批判があるように、根拠とする大覚寺文書の評価に問題があり、また平曲と呼べる琵琶語りが統一編集されて平家物語になったのでもありません。