長秋詠藻

檜垣孝さんのライフワークともいうべき『長秋詠藻全評釈』が完結しました(全3巻 武蔵野書院)。意外なことに『長秋詠藻』の注釈書はあまり多くないのだそうで、和歌が専門でない者が、例えば授業の予習などで一気に理解したい場合には、本書があると助かります。上質の紙なのに重くない造本もありがたい。久しぶりに書斎の和歌関係の棚に潜り込み、檜垣さんの『俊成久安百首評釈』(同 1999)や、松野陽一さんの『千載集前後』(笠間書院 2012)も引っ張り出してみました。

和歌が面白い(と同時に苦労する)のは、言葉に対する感覚をフルに使って読まねばならないことです。例えばこんな歌ーむらさきの根這ふ横野の壺すみれ真袖に摘まむ色もむつまし(久安百首)。紫草の根が横に長く這う、横野という名の草原に咲く壺菫、愛らしくて袖いっぱいに摘みたいよ、その花の紫色も大好き。「紫」「横」は、具体的な固有名詞のほかにイメージを重ねる働きもしています。

身に積もる年の暮こそあはれなれ苔の袖をも忘れざりけり(長秋詠藻479)。この歌の場合、「苔の袖をも忘れ」なかったのは、この年出家した作者なのでしょうか。「年の暮」とは考えられないでしょうかー今年も私は年の暮を迎え、またも年齢を重ねてしまう、出家してやつれた袖をも、歳月は見逃さなかったのだ。

散文を専門にしていると、和歌の語法に慣れておらず、ひねくれた解釈をしてしまうのかもしれません。本人が出家したことを忘れないのは当然で、「ざりけり」の慨嘆がしっくり来ないのですが。贈答歌なので、あるいは消息をくれた相手が出家に触れており、貴方は世を捨てた私を覚えていてくれたのですね、と返したのでしょうか。