共同体の祝祭として

大津雄一さんの論文「『平家物語』という祝祭」(「古典遺産」66 2017/3)を読みました。大津さんは、文学はすべからく共同体のガス抜きとして機能する、というのが持論です。おしゃれな人なので、冒頭からにぎやかで、楽しそうな(『シャーロックホームズ最後の挨拶』から始まる)論文ですが、あちこち立ち止まりながら読みました。

戦争を崇高なものととらえるのは「人の本質的で普遍的な世界理解のありよう」、人は「暴力的エンターテイメントに普遍的に喜びを感じる」というのは、本当でしょうか?そういう性向をもつ人間もあり、そうでない人もいる。但し、熱狂的で巧みな宣伝が始まると乗せられてしまうのは、かなり多くの人の本質であることはたしかでしょう。集団に同調できる感性は美徳とも考えられ、それを持たない、もしくはその沸騰点が極端に低いと社会の中で生きにくい。しかし血や暴力の表現を生理的に受け容れがたい人もいる、いや私は、程度の差はあれ、その方が普遍的な生物感覚だと思っていました。そういうわけで、そもそもの前提から躓きながら読んだわけです。

疑問は幾つもありますが、平家物語(語り本)がグロテスクな表現を忌避している第一の理由は、何をテーマとする作品なのかということと関わるだろう、と思います。平家物語が描きたかったのは、戦場の殺戮や民族意識の高揚ではなく、戦争は我々に何をもたらすかではなかったでしょうか。その点を、ぜひ太平記と比較して論じて欲しい。また享受者が戦場の残酷さを想像しにくい第二の理由には、語りが関わっているのではないでしょうか。この点は、私もいま考える必要に迫られているところです。

それから、平家物語の笑いについても、物語の構成や芸能としての語りと関係させて考える必要があり、そういう観点の論は多くないことに気づきました。なお本論文には註6が抜けています。

おあむ物語の描写には粛然とさせられます。時代の相違(文学に書いていいこと、書けることの変化、つまりは「文学」という器の変化)について、考えねばならないのでしょう。