この雪いかが見る

同い年の友人から、メールが2通来ました。書いてある用件はほぼ同じなので、さては呆け始めたかな、と読み直したら、2通目には「昨日の雪はいかがでしたか」という1文が入っていました。

そういうわけか、と返信を書くために『徒然草』正徹本を取り出して確認していたら、烏丸本とは1箇所異同があることに気づきました。烏丸本「一筆のたまはせぬほどの」、正徹本「一筆のせ給はぬほどの」、常縁本「一筆の給はぬほどの」。私たちは中高の古文の授業以来、流布本である烏丸本で習ってきたので、烏丸本の語呂のよい文体になじんでいるのですが、それは近世初期の出版のための校訂本文なのかもしれず、正徹本の本文が語法的に成り立つなら、善本として採るべきなのでしょう。

愛好されてきた古典は、暗誦しやすい本文が最もそれらしいという評価が堅く、例えば延慶本や源平盛衰記では本来の平家物語らしくない、感動できない、と決めつけられたりします。しかし、永年読者の眼にさらされ、心中の音読にふさわしい律調を持つようになった流布本の文体は、成立当初の姿を保っているかどうか分かりません。それとこれとは別途の問題でしょう。

メールをくれた友人は、このところ『徒然草』の注釈に追われていると言っていましたっけ。底本には正徹本を選んだのでしょうか。