治承4年(1180年)12月、清盛は敵対する南都の大衆(奈良の僧侶)を抑えるため、重衡を派遣し南都を焼討ちしてしまいます。『源平盛衰記』には興福寺・東大寺の伽藍の由来がより詳細に記されています。
【猿沢の池】
最初に鎮圧のため派遣された妹尾兼康は、大衆の勢いに押され京ヘ逃げ帰りました。大衆らは、討ち取った兼康の家の子郎等の首を猿沢の池の端に懸けたのです。
【東大寺大仏殿(奈良の大仏)】
重衡の指示で民家に放った火が東大寺や興福寺に燃え移り、大仏殿の上に避難していた稚児や老尼・僧達は逃げようとして、はしごから転落死してしまいます。経典を焼き、仏像や寺院を破壊し、僧侶を死なせた清盛は、決して許されることのない大罪を背負うことになるのです。
【興福寺東金堂と五重塔】
藤原氏の氏寺である興福寺は、以仁王に加担した反平家勢力でした。東金堂は聖武天皇が元正天皇の病気平癒のために造った薬師像や、新羅国から来た三尊を安置したとされます(西金堂や中金堂(復元予定あり)は現在遺跡のみです)。
【手向山八幡宮】
両寺はほぼ全焼し、多くの僧侶が斬り殺されました。『平家物語』諸本に記述はありませんが、東大寺に隣接する手向山八幡宮も、この時に焼失したと伝わります。
〈交通〉
JR・近鉄奈良駅下車
(伊藤悦子)